行基伝説その2

 行基伝説その1からの続き

 さて、行基が行った工事は治水だけでは有りません。当時、労役や兵役や納税のための庶民の移動は全て自腹で移動中に死んでしまうことも多く、行基はこういった人を救うための布施屋と呼ばれる救護・宿泊施設も作りました。また近畿地方を中心に多く寺院を作り、布教して困っている人を助けたのです。こうして助けられた人たちが故郷に帰った時に行基の話を広げていったのは間違い無いでしょう。

 こうした噂が広がった影響もあるのでしょうか?行基が全国を布教して回ったという言い伝えもあります。しかし、行基の活動範囲は近畿とその周辺部です。行基が作った日本地図であるとする行基図も贋作とみていいでしょう。ただ、この言い伝えが日本全国に行基開基と伝えられる寺社が乱立する遠因にはなっていると言えます。

 聖武天皇が国分寺を造る詔を発した時の日本で最も有名な僧は行基であり、総国分寺とされた東大寺の大仏の建立の責任者的立場に行基が抜擢され大僧正になったのも、行基を慕う民衆の労働力を期待されてとの見方もあります。仏教を軸とした国造り(※)が進む中で、行基の名声はさらに高まっていったのです。

 日本中にある近畿周辺以外の行基伝説はほぼ後世の創作であると見て間違い有りません。また、行基の師である道昭は西遊記でも有名なかの玄奘三蔵から直接教えを受けており、行基は玄奘三蔵の孫弟子にあたる事になります。道昭の死後、行基は修行の山ごもりをしてから本格的な民衆への布教を開始しました。こうした法統や謎の多い修行期間などが、更に人々の想像を掻き立てたのでしょう。

 歴史的に行基伝説の殆どが作り話であったとしても、宗教的には行基の仏教を広げ民を救いたいとの気持ちが形を変えて日本の津々浦々にまで届いたのだと見ることも出来ます。寺社の社伝や縁起を見ながら、古人の気持ちに想いをはせてみるのもいいものです。

 それではまた、合掌。南無行基菩薩。



(※)聖武天皇からの仏教偏重の流れが聖武天皇の娘である孝謙天皇、重祚して称徳天皇の時の悪名高い道鏡事件につながり、後の仏教史にも大きな影響を与えるのですが、それはまた別の機会にお話します。


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