本覚思想と如来蔵思想
大半の日本仏教では、人は誰しも仏となる素質(仏性)を持っているという発想がその根底にあります。これを如来蔵思想と呼びます。大乗仏教の成立と同時期に生まれた考え方で、大乗仏教の殆どが支持しています。大乗仏教以前にも一部に似たような発想はありましたが、ここでは大雑把に大乗仏教前後で分けて考えます。
ではまず、大乗仏教以前はどうだったかと言うと、基本的に仏となって苦しみから脱する事が出来るのは出家したお坊さんの中でも特に優れた人のみです。在家信者などその他の人は功徳を積んで来世で頑張れという事になります。仏となるのは徹頭徹尾修行の結果として縁起の連鎖を断ち切るからであって、仏性がはじめから衆生に備わっているとは見ません。もちろん、輪廻転生を前提とした世界観があるので、無限回数の試行でいずれは悟れるでしょうが大乗仏教とは随分視点が違います。
これは、有名な梵天勧請のお話からも明らかです。梵天勧請の話を簡単にまとめると、お釈迦様が悟りを開いたあと、その教えを一般の人たちに説こうとはしませんでした。話しても分かるわけが無いと考えたからです。そこで、インドの最高神である梵天が、お釈迦様の教えを理解出来る人間も僅かには存在するだろうからと必死にお釈迦様を説得した結果、仏教が伝道されたというお話です。
この梵天勧請のお話が事実かどうかはおいておくとして、広く仏教で信じられてきた話であり、少なくとも大乗仏教以前の仏教では全ての衆生に等しく仏性を認めていなかったと思われます。
大乗仏教では、広く衆生を救うことを目的としており、如来蔵思想も受け入れられていきます。この発想は初期仏教と比して悟りのハードルが異常に上がっていた部派仏教に対して、ハードルを再び下げる効果をもたらしました。一方で人間に固定的な仏性を認めることは仏教の根幹でもある諸法無我(実体としての自分という存在は無いという思想)の否定にもつながる恐れがあり、色々とアクロバティックな解釈でこれを回避しようとしていますが、詳しくは話が長くなるのでいずれ華厳経か涅槃経の解説の時にでもお話しします。また上座部仏教による大乗仏教非仏説論はこの辺の流れにもよります。
次に如来蔵思想と並べて語られる事が多い本覚思想ですが、これは主に天台宗で語られる如来蔵思想をさらに推し進めた「お前はもう悟ってる」的な発想となります。煩悩も悟りの縁であり、同じものだとするような発想も成り立ってしまいます。現世をおおらかに認める感じがいかにも日本仏教的ですが、実は如来蔵思想ほどには浸透していません。特に浄土教系の宗派では凡夫と仏、穢土と浄土は絶対的に別れていますので抵抗感があるものと思われます。本覚思想を体現したような不生禅が、臨済宗の主流派からは否定的扱いを受けた歴史もあります。
こうした発想の違いで学者や僧侶間で激しいバトルが展開される事もありますが、正邪にこだわりすぎているなあと思います。現場の人間としてはより多くの人が救われる様に多様な教えがあっていいじゃないと断言します。考えの違う人も尊重して譲り合う精神を持ちましょう。仏性があろうがなかろうが本来悟っていようがなかろうが、大乗仏教徒たるもの利他と慈悲の心があればそれに至る過程の思想なんて些末な問題です。
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