不生禅
江戸時代に臨済宗の盤珪禅師が説かれた不生禅は、面白い人物が多い臨済宗の中でも異彩を放つ禅の一派です。臨済宗中興の祖としても知られる白隠禅師は不生禅に否定的であったとも伝えられます。今日はそんな不生禅についてお話してまいります。
不生禅を簡単に説明すると、まず前提として、我々人類の一人一人に両親から頂いた仏の心が元から備わっており、それは自分が生まれた後に作られるものでは無く不生で不滅だと考えています。だから、人間はそのままの状態で既に生き仏なのです。そうすると、通常が仏の状態であり、たまたま仏の心を維持できていない状態が迷いであり凡夫の状態な訳ですから、普段の仏の心を維持するようにすれば、わざわざ悟りを目指す必要も無くなるのです。盤珪禅師は、臨済宗の根幹をなすと言っても過言ではない公案(禅問答)をかえって迷いの元になると断じてます。さらに座禅そのものについても、仏の心が落ち着き座るところが座禅なのだから常日頃のありようこそが座禅と言うべきであり、いわゆる座禅として座る時ばかりを重視しないとまで言ってしまっています。
こうした内容を一般人にわかりやすく平易な言葉で説いたことから、盤珪禅師に対する個人的な崇敬者は禅宗の信徒にとどまらず多種多様で、身分の上下に関わらずその数なんと5万人に達しました。超宗派的となった盤珪一派は自らを仏心宗や明眼宗とも呼んでいます。禅師は「我宗は自力にもあづからず、他力にも預からず、自力他力を超たが我宗でござる」と言ったと伝えられています。確かに自分で修行を積んで悟る道でも無く、外なる仏にすがって悟る道でもない、私達はそのまんまで仏であるとする考えは自力でも他力でもありません。
さて、臨済宗内では主流とはならなかった不生禅ですが盤珪禅師関連の寺院では今でもその遺徳が顕彰されています。また、江戸時代の倫理学の一派であった石門心学にも影響を及ぼしました。その心学も江戸末期には衰退しますが、後に仏教学者の鈴木大拙や中村元らに再評価された事もあり、マイナーながら知っている人は知っているポジションを占めています。
不生禅の発想ではあなたも私も生まれたその時からもう仏様なのです。仏の心が保てるように生きていきましょう。合掌。
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