常識を壊すな!
常識はよく「壊せ」とか「疑え」とかと煽られる可哀想な概念です。また一方で常識はよくケンカの際にお互いを非常識だとする為の根拠として用いられます。改めて考えると常識とはなんでしょうか?一般的にはその社会で当たり前な価値観や知識を指します。つまり、社会ごとに常識は違うわけです。だから、特に知識に関しての常識では、日本の常識が外国では通用しない事もあるのです。そんな常識ですが本日おもにお話するのは価値観の方の常識です。価値観としての常識で、世界中のほとんどの国や社会で通用する常識があります。それは、平時において殺さない盗まない嘘をつかないの三つです。どこまでを平時ととらえるかはそれぞれの社会で大きな差がありますが、この三つは人類の常識と言って良いでしょう。
この常識はなぜ守られてきのか?おそらく、このルールを守っている社会組織の方が集団としての生き残りに有利だったからなのは間違いないでしょう。では、生き残りに不利ならばこの常識はくつがえるのでしょうか?先程、この三つのルールは「平時において」と断りましたが、戦時においては当然適応されなくなります。宗教に関して言えばキリスト教などの一神教では元から敵を倒すような表現がありますが、仏教は原則として殺生を否定しています。これは初期仏教において僧侶は出家し世俗とは別の世界にいたから可能だったのです。しかしながら仏教といえども世俗にあり軍事行動に関与した場合は何らかの形でこの三つのルールを破る言い訳を作り上げています。他の宗教も含めて罪は罪としたうえで許しを与えるというような方法がメジャーです。
さて、戦時のような例外は別として、平時におけるこの常識は疑ったり壊したりするべきものでしょうか?前述のようにこの三つのルールを守ることはその社会組織の生き残りに有利だったのですが、有利だからこれが常識になったのではなく、この常識をもった社会が結果として生き残ったのだと思われます。そうと言うのも、これまでも社会の発展と生き残りに有利だと思われる新常識を人類は作り上げてきましたがことごとく失敗しているからです。共産主義、国家社会主義、主体思想は名前こそ違うものの、国家を一つの有機体のごとくにみなし、全体の利益のために指導者が個々の国民を騙し、国民から盗み、国民を殺す事を許容するシステムです。社会の人がバラバラに動くよりも、統制された行動を強制するほうが効率的になるという考えは妄想であったと歴史が証明しています。
もっと卑近な例で言うとなぜ人を殺したらいけないのか?という哲学的課題が一時流行りましたが、その理由を個人や社会の利益に求めるならば、利益になれば殺人も盗みも虚言も認めなくてはいけなくなります。常識とは社会が長い時間をかけて固めてきた価値観なのです。人を殺したらいけないのに理由なんて必要ないのです。ダメなものはダメなのです。この三つの常識だけは壊してはいけません。
上記のように価値観に関する常識は長い間変わらないものです。しかし、知識に関する常識は地域や時代だけでなく科学技術の発展によっても徐々に変化していくものです。だから、疑われるような常識は徐々に変化するのが常です。例えば平安の昔には常識だった方違え(不吉な方向に移動するのを避けるためにわざと遠回りして目的地に向かうこと)などは今では残っていません。知識に関する常識は疑ってみて間違いがあれば改変していった方が良いでしょう。しかし、その時代の常識的知識の方が間違っていても、より正しい新説は旧来の常識の抵抗にあいます。挑戦者は旧来の常識の支持者を打ち破るほど十分な根拠を提示しなくてはなりません。また、ありがちなのは明らかに間違った新説を述べる人が、正しい常識を否定する図式です。実のところ常識を疑い壊そうとする人の大半は間違っているものです。だから、常識を疑う人は、本当におかしいのが常識の方なのか自説の方なのかよくよく考えてから行動すべきです。特に陰謀論を信じてしまう人は、本当に非常識になります。用心用心。
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