弱者は悪か?
強者への恐怖から悪事をなす弱者は果たして悪か?
例えば他国を侵略し域内の人権を蹂躙する海外の独裁国があったとして、それはその国内のみならず国外でも逆らうものには嫌がらせをするような国だったとしよう。ある日、その国の悪事に関して苦言を呈したある会社員が、その独裁国を恐れ忖度した自身が所属する会社により懲罰を受けたとしたら、悪いのは独裁国だろうか、それともその会社だろうか?考えてみよう。
さて、とある弱者が強者からいじめられていたとして、周りの人間は果たして止めるだろうか?強者に抵抗したら自分も攻撃対象になるかも知れないから見てみぬふりをしたり攻撃に加担して身の安全を確保する人も多いことだろう。そういう人が多ければ強者に抵抗するような異分子は積極的に社会のシステムから排除される。強者にひるまない文化が無いと容易にいじめや独裁が起きる。
また、人の強い弱いは相対的な尺度に過ぎない。ある弱者はさらに弱い人からみたら強者であるし、ある強者もより強い人からみたら弱者である。だから、いじめられている弱者が別の場所では強者として振る舞い更に弱い者をいじめる構図は社会ではしばしばみられる。学校などの閉鎖された社会では、その役割は固定されがちだが、大人社会のそれは極めて巨大なものになる。中央で指導的立場にある者が少数でも末端が恐れるのはその組織全体だ。その組織の最外殻は、新たな弱者を求めてうごめく、組織は層状に膨らみ、中央以外のどのレベルで切っても、より内側の層全体の恐怖に負けてその外側に恐怖を振りまく人がいる。さらに複雑なことには、恐怖の源泉である中央の指導者層は組織の外にも多数存在しており、それぞれが恐怖を重力として弱者を自分の組織に引き入れようと動いている。いくらかでも強いものは組織の中央側に移動するから、力関係で先に揺れ動くのは常により弱い者の側だ。
こうした社会で、強者への恐怖を行動原理とする弱者は、主義主張ではなく自己と他者の強弱関係でその行動を決める。末端の弱者が行った事が悪だとしても、実のところその意志は中枢の強者の物であり、弱者達自身は善悪の枠外で動かされているだけだ。
結局のところ恐怖が層状構造をなす組織的な悪はその中枢を滅ぼすことでしか倒せない。だが、強者にひるまない教育がなされていない社会では、悪の中枢が滅んでもすぐ新たな中枢が形成され、違う悪が生まれる。仮に新たな中枢が善い存在でも、強者への恐怖が末端の原動力ならば恐怖の少ない善い組織は長続きはしない。強者への恐怖に立ち向かえない社会は悪で満ちるのが自然と言える。
だから、強者への恐怖から悪事をなす弱者は果たして悪か?という始めの問に対する答えは弱者は悪ではない。また、極論すれば強者も悪ではない。恐怖による服従を受け入れる社会の自然の成り行きだからだ。各自がおかしいと思った事はおかしいと言える言論の自由を守ることは、恐怖により支配さえる社会から脱することが出来る鍵となるだろう。儲かりそうだからと独裁国に屈してはいけない。言論の自由の値段はそんなに安くはない。
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