広島原爆忌 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 8月 06, 2020 本日、8月6日は広島原爆忌です。この日に広島の祈念式典周囲にいたことがある人なら分かると思いますが。多くの人が黙祷をする原爆が投下された8時15分に合わせて、一部政治活動家たちがマイクを使い原爆とは無関係な政治的主張を怒鳴り散らす光景はいつ見ても嫌になります。アレを宣伝のつもりでやっているなら逆効果なので即刻やめて頂きたい。今年は参列していませんが、新型コロナウイルスの流行期でもありいくらかは静かだったのでしょうか? 合掌。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
衆縁和合 2月 18, 2021 涅槃経でも説かれる衆縁和合とは、この世は様々な縁が合わさって成り立っているということです。例えば自分というものも様々な縁によりかりそめに成立しているに過ぎません。この考え方では直前の自分と今の自分とでは同じものでは無く、直前の考えや知覚や行動や周囲の環境などの縁により現在の自分があり、現在の考えや知覚や行動や周囲の環境などの縁で直後の自分が生じ、次々に生滅を繰り返しているのです。そして、自分が存在もまた縁となり他へと影響を及ぼします。自分が地球の裏側にいる人にも影響を及ぼし、逆に影響を及ぼされもするのです。また、遠い過去の人の縁も今に連なり自分に影響を及ぼしますし、自分も未来へ縁をつなぎます。これは何かすごい本を出版したとかでなくても、今日おこなった僅かな善いことや悪いことだって先々の世界へ影響するのです。 仏教の前提となっている全ては移ろい行くという諸行無常も、全てのものは因縁により生じた実体の無いものとする諸法無我も、この世が衆縁和合により成り立っていることと表裏一体です。仏教の悟りとは原因と結果の連なりを観て、苦の根本原因が煩悩にあると理解し、煩悩から生じる原因と結果の連鎖を断ち切って苦をなくす事が基本です。これは縁起とか因縁とかと呼ばれますが、衆縁和合の世界では個々の因縁のつながりも複雑に関係しあっています。だから、何かの結果が複数の原因からなることも、なにかの原因が様々なところへ影響を及ぼすこともあり、その結果があらたな原因となってこの世は網の目のような縁が広がっていることになります。自分が何かをなしえたと思っても、それは膨大な縁の繋がりの結果そうなったのであって思い上がってはいけないのです。 衆縁和合の世界は無常であり移ろいいきますが、原因が結果をつくる連なりは変わる事がありません。不変の仏性とはそこにあるのです。古来、仏道において正念と正定が重視されたのは縁起を正しく観なければ仏性の存在も分からないからでしょう。南無佛、南無法、南無僧。 続きを読む
心理的リアクタンス理論 9月 29, 2021 心理的リアクタンス理論とは1966年にジャック・W・ブレームによって唱えられた理論で、簡単に説明すると「押すなよ!絶対押すなよ!!」と言われると押したくなるあの心理状態のことだ。一般的に言うと、個人が特定の自由を侵害されたときに喚起される自由回復を志向した動機的状態だ。 最近では、新型コロナウイルス対策を無視して、マスクを着けない、ワクチンの接種もしない、密集・密閉・密接状態で騒ぐなどの行為に及ぶ人も多少いるが、彼らは強制に反対し自由を求める心理状態にあるのだと思われる。一方、大半の人が感染対策に関して心理的リアクタンスを生じないのは、その必要性を十分に理解していているからであり、また自由を制限しているものの本質は感染症であり、対策を強制しようとする社会では無いことを知っているからでもあるだろう。自由の回復のためには感染対策をするしかないのだ。 反ワクチンや反マスクのように極端に有害なものでなくても、人は何かしら規制されるとこうした反応を起こしがちだ。この応用として、よくバーゲンなどで見かける先着何名様に限り半額とかいう情報も、急がないと半額で物を買える自由を失うという制限に対抗する心理を人におこさせる罠であることが多い。こうして哀れな犠牲者はいらないものを買わせられるのだ。 また、独裁国においても、国民に対し強制や規制をしがちだが、彼らはその原因を外国や国内の反動勢力にもとめてることでうまく民衆からの抵抗を回避している。極論すれば、独裁国は敵がいなくなると困る政体でもあり、常に無実の敵を捏造し続ける。声高に誰かのせいで自由が脅かされているなどという煽り文句を聞いた時は、騙されていないか十分に検証すべきだろう。 続きを読む
看脚下 7月 29, 2021 看脚下とは足もとに注意せよと言う意味でお寺の玄関などで木の板に書かれた 看脚下の言葉を 時々目にします。 履物をきれいに揃えるように促したり、段差でつまづかないように注意したりする気配りであると同時に、看脚下は自省せよいう意味も内包されており、玄関を出入りする度にその事も思い出す仕掛けでもあります。 昔、禅僧の一行が夜道を歩いていた時に、持っていた灯が消えてしまい真っ暗になりました。ここぞとばかりに禅の師からこの暗闇の中をどうするかとの問いが出されます。もちろん、この質問は禅問答として有名な看話禅であり、 暗闇の中の道というお題にどういう仏法的な真理を見出すかが重要になります。お弟子さんたちは次々とそれっぽい答えをしますが禅師は納得しません。最後のお弟子さんが「暗くて危ないから足もとに気をつけましょう!」と答えたのを聞き、師匠は満足したと言われます。 暗い道で足もとに注意を払うのは当然なわけですが、看話禅の公案として質問されると、師に褒められる回答をしようと欲をかいて、物事の本質を見ずに難しく考えてしまい簡単な事も分からなくなるものです。こうした煩悩から生まれる妄想から離れ自分の内外の状態に正しく注意を向けるのは仏教の八正道の一つ正念でもあります。人生は暗闇の中の道にも似ており、常に正念場なのです。 続きを読む
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