一二三四五

 道元禅師が仏法を学ぶために宋に渡った時、授戒の不備からすぐには寺院への入山が許されず、日本船で待機していました。その際、食材を買いに日本船に訪れた老いた典座(寺院の食事係)に対し、食事係などの雑務は若いものにさせて経を読んだり座禅をしてはどうかと勧めたところ、道元禅師はこの典座から文字も分かってなければ仏道をわきまえてもいないと指摘を受けました。本日お話する「一二三四五」は、道元禅師とこの典座が後日再会した際に文字とは何かとの道元禅師の問いに対して、老典座が答えたとされる言葉です。

 この答えの後に、道元禅師は仏道をわきまえるとは何かと重ねて質問し、世界は何も包み隠されていないとの答えを得ます。禅宗では一般的に真の仏法は言葉では伝えられないとされています。座禅も含めて生活の全てが修行であり、世界の全てが真理の現れで、それを正しく見る悟りは修行と一体でもあるのです。典座の言葉も一般的にはこの文脈で理解されています。即ち、経典の勉強をしても経験を伴わない語義の理解だけでは修行にならないのです。「一二三四五」もこの流れでは単なる無意味な言葉ということになり、要は言葉にとらわれるなと解釈される事が多いのです。果たしてこの解釈は正しいのでしょうか?

 確かに禅宗で重要視される考案や祖録などは、一読しただけでは何を言っているのか意味不明な物が多いです。有名なところでは、臨済が黄檗と殴り合って悟る話などは、話の内容では無く解釈が重要となります。一方で、老典座から厳しい教えを受けた道元禅師はどうでしょうか?彼の著作を読むと、実に理路整然としており、言語文章の持つ力を遺憾なく発揮しています。道元禅師は決して言葉を軽視していないことは明らかです。

 実は、日本船を訪れた老典座は道元禅師に文字も仏道も分かっていないとの指摘をした直後にも道元禅師から文字とは仏道はわきまえるとは何かと問われており、そのように問いかける事が文字であり仏道をわきまえる事なのだと答えています。この流れで考えると後日、同じ質問に対して答えた「一二三四五」は単なる無意味な数詞の列では無いように思えます。

 大乗仏教の祖である龍樹菩薩も、言語で解釈されたものは人の分別にとらわれているとしています。数も人間が何かを分類して数えるから成り立つ概念です。「一二三四五」という増加する数をどう解釈するかは多種多様にわたります。いくら考えてもきりが無いです。ただもし、文字とは何かと問われた時の答えが、数詞でなく一般の名詞や形容詞や動詞や副詞だったら、それでも解釈のしようはいくらでもあるでしょうが言葉そのものに具体的な意味をもっており解釈の幅は狭まったでしょう。道元禅師の著作の多くは極力誤解を排除するような構成となっており、これは言葉のあやふやさや無力さを理解しつくした上で作られたものではないでしょうか?「一二三四五」はそのことを語りかけているのかも知れません。悟りの内容は言葉では伝わりませんが、言葉を軽んじてもまたよろしく無いのです。

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