バイオレンス臨済録
このブログでも何度か紹介している臨済宗の祖である臨済義玄のワイルドすぎる生き様は弟子により臨済録としてまとめられています。この書の中で臨済は、とにかくよく殴り、よく怒鳴り、よく暴れます。現代でも臨済宗の僧侶は癖が強く開祖の気合は脈々と受け継がれているようです。今日はそんな臨済録を簡単にご紹介します。
臨済録の大体の流れは、まず、臨済の師である黄檗との話、次に大悟を果たした臨済がさらに怪僧の普化のもとで経験を積む話、独立後の臨済や弟子との逸話、臨済の仏教講義の記録、様々な僧との対話となります。
臨済録は唐末の混乱期に河北地方の俗語で語られた内容が伝聞としてまとめられており、いくらかのバリエーションがあり、当時の文化などが分からないと意味不明の言い回しもあるのでただでさえ難解な話がますます難解となっています。その中で比較的文章の意味がわかりやすく、臨済録から最も引用されるのは臨済の講義をまとめた「示衆」の部分です。逆にこれ以外の部分が理解出来なくても、ああ何かまた臨済と愉快な仲間たちが暴力的に言語や固定概念を破壊しているなあ程度の認識で臨済宗以外の在家仏教徒なら問題ないです。
さて一般に引用が多い「示衆」で繰り返し説かれているのは、自分の外側に影響されて悟りを求める愚です。だからと言って内側にのみそれを求めるのも否定しています。正しい見解を持つことを重要視し、あらゆるこだわりを否定しています。大乗仏教で菩薩行の基本となる六波羅蜜すらも否定します、仏へのこだわりも魔だと断じてすらいます。
有名な「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱することを得ん。」との臨済録の言葉は決して殺人を推奨しているのではなく、どれほど立派でどれほど親しい人でもその影響も排除した見地に立たねば正しく物事を見ることは出来ないという意味です。仏や親は自分の外にあるものばかりではなく、自分の内部にあるそれも含みます。大乗仏教では全ての人に仏の要素があると言うのは前提ですが、それに拘るのも否定しています。臨済録では人の内なる仏とは人の心が清浄な状態とも説いています。仏の状態を貪り執着していたのでは清浄とは言えないのです。
臨済の過激な言説は続き「五無間の業を造って、はじめて解脱を得ん」と言います。五無間の業とは、父を殺し、母を殺し、仏の身を傷つけ、教団の統一を壊し、経典や仏像を焼き払うという仏教における最大級の禁忌です。その罪を犯してはじめて悟りが開けるとはどういうことでしょうか?ここでは人の苦の根源となる煩悩の無明(無知)を父と捉えています。また貪りや執着の感情を母に例えているのです。つまり無明と貪りを空の考えで滅した状態が父母を殺すこととなります。苦の両親を断つ訳ですね。同じく条件や関係性の中でしか存在しない物には実体は無く仏の概念も経典の文字も教団も究極的には空です。禅の修行の中では仏教の根幹をなす仏も法も僧も実体を持たないのです。仏教徒であれば最も執着するであろう禁忌をあえて実践せよとの例え話で、弟子の固定観念を打ち砕こうとした計算ずくの暴言と言えます。
バイオレンスな言動が目立つ臨済も単に暴力的で変なお坊さんでは無いのです。表向きは過激な事を言っても中身がしっかりした人気の毒舌キャラが生み出した思想は今も多くの人に受け継がれているのです。
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