一遍上人忌

  明日は時宗の開祖一遍上人の御命日にです。寺を持たず旅をしながら教えを広める遊行生活を送った上人は正応2年8月23日(1289年9月9日)、旅の中に50年の人生を閉じました。今日は一遍上人の教えについて見てまいります。

 一遍上人の時宗は踊り念仏で有名な浄土教の流れの宗派ですが、その教えは浄土教の枠内におさまらない独特な物があります。一般的な法然と親鸞の流れに属する浄土教の教えでは愚かな凡夫である我々は自分の努力(自力)では悟りを開くことができず阿弥陀如来の本願力(他力)によって救われると考え、阿弥陀如来への信心が重要視されます。しかし、一遍の時宗においては阿弥陀如来への信心の有無は問題視されないのです。そればかりか、有無、自他、長短、大小、善悪、愛憎、生死などの全ての分別も消滅して全てが阿弥陀仏となるという発想なのです。言うなればあなたも私も山も獣も虫も鳥も魚も空も海も宇宙もみんなが阿弥陀仏なのです。こうしてあらゆる物を飲み込んだ南無阿弥陀仏が一遍上人の念仏となります。これはもう踊るしかなかったのでしょう。ロックだぜw

 こうした自由な発想をもつ一遍上人ですが、全てを捨てて諸国を行脚したのには単に踊って喜び布教する為だった訳ではありません。一遍上人の言葉に、家族を持つ在家でありつつもそれに執着しないで往生する念仏者が一番素晴らしく、次が家族を持たない在家で住居や衣食に執着せず往生する念仏者が良く、最後に何にでも執着してしまう最悪な凡夫はすべてを捨てて念仏し往生するしかないとするものがあります。一遍上人が家族も財産も捨てて遊行したのは自らを最悪の凡夫とみなしており、家族や財産に執着しては愛憎や自他などの分別にとらわれては全てが阿弥陀仏である世界が見えなくなるからなのでしょう。少なくとも一遍上人を慕う人が増えて以降は、やろうと思えば寺を構え我こそは最上の念仏者と言って家族を持ち贅沢三昧な生活を過ごすことも可能だったはずですが、彼は死ぬまで苦しい遊行の旅を続けました。やっぱりロックだぜ。

 また時宗では「南無阿弥陀仏 决定往生六十万人」と書かれた札を配る風習がありますが、最後の六十万人は六十万人しか救わないという意味ではなく「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華」の各句の頭文字をとって作ったと言われています。この句の現代語訳は、「南無阿弥陀仏の六字名号は唯一で普遍的な法であり、仏も生き物も環境も全てもこの南無阿弥陀仏のあらわれで、執着を離れる全ての行は等しく悟りにつながる、この行を行う人は素晴らしい」となります。もちろん六十万人という大人数との語呂合わせもあるでしょうが、アレ?と疑問をもたせて興味を引くなかなかよい戦略です。こうしたギミックのあるグッズを配布して念仏ファン獲得につとめるとは、ロックな一遍上人のポップな一面でした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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