正像末和讃より
浄土真宗開祖の親鸞聖人の和讃集の一つ正像末和讃より抜粋です
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峰岳山にことならず
現代語(意訳)では、
無知や煩悩が激しく塵の様にこの世に満ちている
愛や憎しみに苦しみ楽しむことは行く手を阻む高い山のようだ
という感じです。
一般的に仏教は悟りを開く為に一生懸命に修行したり功徳を積んだりするものですが、親鸞聖人の発想はまるっきり逆で、煩悩に満ち溢れた人間がそんな努力をしてみても悟りなど開けはしないと言うのが前提です。こうして徹底的に自分が駄目なところを見つめて行く先に、阿弥陀如来の救いを求めるようになる訳です。
人によりこの信仰形態の好き嫌いはあるでしょうが、浄土真宗のこの基礎的な考え方は、驕り高ぶるリスクを減らす点においては他に類をみない強固さがあります。
自分が、怒りや貪りや様々な執着や偏ったものの見方に支配されていないか、時々はこの和讃を思い出し反省してみるのも良いでしょう。
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