安楽死を考える

 先日からALS患者の殺人事件について世間で色々と言われています。報道でもあるように少なくともあの事件に関しては法的には明確に殺人であり安楽死とは言えません。今日は安楽死について考えてみます。

 医師が積極的に患者を殺害する安楽死が法的に許容される4つの要件は一般的に、患者の肉体的苦痛が耐え難く、避けられぬ死期が迫っており、他に代替となる手段がなく、患者の意思表示が明示されていることとされています。しかしながら、実際に積極的な安楽死が実施されることはほぼありません。第一にこれらの条件を満たしたと医師が思っていても殺人として刑事事件になるリスクは大きいですし、また肉体的な苦痛の除去する方法が死の他に無いなんて状況はそうそう発生しません。ここで注意すべきは基本的には肉体的な苦痛の除去が安楽死の主眼となっている点です。心身の苦痛を除くとされる場合もありますが、肉体的苦痛が無く精神的苦痛の除去の為になされる殺人や自殺は安楽死ではありません。

 他方で消極的な安楽死は医療現場で日常的にみられます。経験的にもっとも多いのが、本人に意識が無く致死的な状況で延命処置を行っても短期間での死亡が確実な場合に、家族にそれらの情報を提供して人工呼吸器の使用や気管切開などを見合わせる希望が出される場合です。また、少数ですが口からの栄養摂取が不可能になった場合に、鼻から胃に栄養を入れる管を入れたり、胃に穴を開けて栄養の取り入れ口を作ったりする処置をしない意思を示される患者様もいます。医療者として気をつけるべきは、延命処置を実施しないのはあくまでも患者様や本人の意識の回復が望めない場合はその御家族からの希望によらなければならないという事です。本人も家族も延命を希望されているのに医師がそれを意図的に実行しなければ殺人罪に問われる可能性があります。

 今回の事件のように、ALSで人工呼吸器を使用しない意思表示をされる患者様でも、呼吸苦が生じた段階で苦痛に対しての処置を行っていけば自然に眠ったような最期を迎えることは概ね可能であり、これも消極的安楽死と言えます。もちろん、それまでの精神的なケアが不十分ではいけません。呼吸の苦しさに対する処置をしても血液中の酸素の低下や二酸化炭素の上昇による意識の混濁は避けられません。そうなる前に、自分の人生に対して何らかの納得が得られていないと行く人も見送る人も心残りがつのるものです。また、人工呼吸器を使用するかどうかは直前まで意思が撤回される可能性があり、どちらの場合も慎重な確認が必要です。

 このように安楽死の要件としては肉体的な苦痛の除去が前提ではありますが、精神的な要素を無視しては良い最期を迎えることは出来ません。逆に精神的要素ばかりを強調すれば、極論では患者が死にたくなれば殺して良いこととなり、死ぬ必要性が無い人までも次々に殺害される恐れがあります。病気にかかれば誰しも不安になるのものです。その基本的なところを忘れて安楽死を特に積極的安楽死を推めるのは危険です。現状では消極的安楽死で十分対応可能であり、病気のために抑うつ症状を来した人に付け入りお金をとって嘱託殺人を行うことは断じて安楽死ではありません。

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