賽の河原
無駄な努力のことを賽の河原と言いますが、最近、若い人に対してこの言葉を使った所、意味が通じなかったので、ジェネレーションギャップと言うものを感じつつ、今日は賽の河原についてお話します。
賽の河原の語源となっているのは仏教にまつわる日本の民間伝承です。不幸にして亡くなった子供たちはその滅罪の為に三途の川の河原の石を積み上げ塔をつくらなくてはいけなくなります。ところが何度石の塔を作っても、それが完成する前に鬼たちが塔を打ち崩してしまい、子どもたちはいつまでも小さな手をすりむきながら、父母が恋しいと泣きながら石塔を作り続けるのです。そんな悲しいお話ですが、最後に子どもたちは地蔵菩薩に救われます。
この話は地蔵和讃として日本各地に色んなバリエーションで伝わっています。日本で地蔵菩薩が子供を守るとされているのはこの伝承の影響だと思われます。ところで、この賽の河原の言い伝えには、現代人には少しギョッとするような価値観の違いがあります。死んだ子どもたちが作っている石の塔は、自身の滅罪のためと説明しましたが、この子らにどんな罪があるのかと言うと、なんと親より先に死んだ罪なのです。いやそれはいくらなんでも可哀想すぎるだろうと思われるでしょうが、先の大戦で死地に赴いた若い兵士らの遺言でも、父母に先立つ不幸を謝罪する文言はある種の定型句であり、年齢順に死ぬのは割と最近までは倫理的義務感を伴うことだったのです。
ですが、これを昔のおかしな価値観の物語だと言ってしまうのも早計です。昔の人でも子が死んで悲しく無いはずはありません。この物語では子供の罪は早死して目上の者を悲しませた事にあるのですから、親が嘆き悲しめば死んだ子の罪は増々重くなるわけです。親が悲しみから立ち直るのは子供の供養にもなると言う事になります。その努力を続け子供の罪を減らし、ついに亡くなった子供も地蔵菩薩に救われます。不幸にして早死にした我が子が救われた事で両親もまた悲しみから救われるのです。賽の河原のお話は子供の死を悲しむ親族の立ち直りの過程をささえる物語だったのです。今で言うグリーフワークですね。そのように考えると、これも昔の日本人が作ったやさしい言い伝えだと言えます。それは決して無駄な努力ではなかったのです。
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