日本仏教と死
もともと仏教そのものが生老病死の問題を解決する教えですが、日本の仏教と言えば特に死を強くイメージされる方が多いかと思います。これは日本では仏教寺院が葬儀やお墓の管理など死に関する文化を担い、逆にめでたいことやお祭りは神道など他宗教が担ってきたことも原因かと思います。もちろん慶事を仏式で祝い、葬儀などを神式で行う事もありますが少数派です。他の仏教国はめでたいことも悲しいことも仏教とともにあるので、死は仏教の重要な要素ではあっても日本のように僧侶が死神扱いされる事も無いのです。
とは言え伝統的に日本仏教が死を強調してきたのも事実です。人の命は儚くすぐに終わります。明日も明後日もあると信じて今日の精進をおこたる事があってはならないからです。いくつか例をあげてみましょう。
浄土真宗の蓮如上人の有名な御文章白骨の章には「されば人間の儚き事は老少不定のさかいなれば誰の人も早く後生の一大事を心にかけて」とあります。たとえ若くて健康そうに見える人でも死は次の瞬間に訪れるかも知れないのです。だから、今を大切にしなくてはならないのです。真宗の場合は死して仏になる後生の一大事を心にかけることが今生の安心につながる訳ですね。
一方、今生の修行を重視する禅ではどうでしょうか?曹洞宗が明治期に在家布教の為に編纂した修証義の冒頭部にはこうあります。
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり
生死の中に仏あれば生死なし
但生死即ち涅槃と心得て
生死として厭うべきもなく
涅槃として欣うべきもなし
是時初めて生死を離るる分あり
唯一大事因縁と究尽すべし
生と死を正しく理解し、その中に仏性を見出すことで生き死にや涅槃への執着を離れる事が悟りにつながるという意の文章です。この文に引き続き、人に生まれ仏法に触れる事が出来る可能性は極めて低いが自分たちは人に生まれ仏法にあう事が出来ている、悟るための最高の条件にあるのだから、この命を無駄にしてはならないという意味の文が続きます。
また、日蓮上人が信徒に送った手紙である妙法尼御前御返事には「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とありやはり限り有る人生を大事に使うようにとの意が読み取れます。
東京などではお盆の最中の時期です。今はなき家族や祖先を想いながら自分の命も大切にしていきたいものです。
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