多様性の許容はどこまでなされるべきか?
人種や民族による差別はあってはなりませんが、国や地域による文化の差は必ずあります。そうした中で価値観が極端に違う人とどう接せるべきなのかを考えてみます。多様性はどこまで許容されるべきなのでしょうか?
知っている人は知っていると思いますが、名誉殺人と呼ばれる風習が中東から南アジアの一部地域にあります。名誉殺人とは、強姦も含めて婚外での性的交渉があった女性や自由恋愛をした女性、ひどい場合は家族以外の男性を見ただけで、その女性を一族の名誉を汚す存在として、一族の名誉を守るために血族の手によって殺害することです。この殺人の犯人は一族の名誉を守った英雄として褒め称えられます。
この風習は恐らく殆どの日本人には理解不能なことだと思いますが、この風習がある地域では、日本人的な発想をするほうが非道徳的で異常な訳です。
さて、ではこのような我々から見て明らかな非道が外国にあると知ったときに何をするべきでしょうか?外交的圧力や当該国の製品の不買運動、あるいは異文化への不干渉などいろいろな意見があるでしょう。
では次に実際の世界ではどのような対応がなされているかみてみましょう。実は名誉殺人の対して人権活動家等による個別の批判はされていますが、国家単位で具体的な効果を持つ行動はなされていません。
なぜでしょうか?実はどの国でも法的には名誉殺人はただの殺人であり違法です。要は個人的な犯罪であり国が口出しする事では無いとの判断です。
しかし、名誉殺人が行われている地域では不自然な自殺が多かったり警察が見てみぬふりをした例も報告されています。その地域の警察が本気で取り締まっていないのは明らかです。
世界中のほとんどの国では他国の人権状況よりも、その国との経済的結びつきの方が優先されます。他国の人権に口をはさむ時は、それに伴う政治的あるいは経済的利益がある場合です。強者にとって利用価値の無い弱者はいつも見捨てられるのです。
また互いに正義を振りかざせば、必ず衝突や争いが生じる訳で、それを避けるためにやはり弱者は見捨てられがちです。
でも、それで良いのでしょうか?多様性が大切とか、相手には相手の正義があると言うのは揉め事を避ける口実に過ぎないのでは無いでしょうか?現に理不尽に殺される弱者がいる時に、彼女らを見殺しにすることが道義的に正しいはずがありません。理屈をこねずに常識で考えれば分かることです。とりあえずは、抗議活動をしている人権団体の支援や、情報の拡散による社会的圧力の形成など微力でも出来ることはあります。
これは単に名誉殺人だけの話ではありません。例えば強力な独裁国家による国内の人権蹂躙は世界中からほぼ無視されています。無力だろうが無駄だろうが、我々だけでもそれを無視せずにいたいものです。物事は努力して結果が出るかどうかは二の次なのです。結果が出ないからと悪に加担してはなりません。ただ無心になすべきことを行う、結果が得られないなら行わない善は貪りのための偽善に過ぎません。
種の生存戦略として思想の多様性は極力維持した方が有利だととの意見もありましょうが、その進化論的な発想では自然淘汰やゲーム理論的なミームの均衡も織り込み済みなはずで、我々が遠慮をする必要など微塵も無いのです。相手から見たら我々のほうが悪であっても、こちらが譲れない点まで譲る必要は無いのです。多様性が大切だからと名誉殺人を許容するのは結局のところ相手の意見に同調しただけで、こちらの価値観の消滅であり多様性の減少も意味します。
結論として多様性は大事でありお互いを認め合うのは良いことですが、それを言い訳にしてこちらが絶対に認められない悪まで許容してはなりません。
それではまた、合掌。
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