立正安国論

※注意:今回の内容は日蓮宗や浄土教系の信者の皆様には刺激が強い可能性がありますので、あらかじめご了承ください。仏教者らしく怒りを抑えて参りましょう。

 本日は日蓮上人の立正安国論です。元寇を予言したとして有名な書で、書かれた当時は現在と同じように天災が相次いで起きていました。この状況を憂えた日蓮上人が鎌倉幕府に日本を守るための意見を申し上げたとして歴史の教科書にも載っているのでご存じの方も多いかと思います。

 元々、法華経自体が全ての人の悟りとともに久遠の仏をいただく理想社会を目指そうとする方向性があり、それを信奉する日蓮上人が立正安国論を記すことで社会や国政を動かそうとしたのは自然な流れです。これが今日まで続く日蓮宗の積極的な俗世への介入の元になっているのは間違いありません。

 そんな立正安国論のあらすじを紹介しますと、飢饉や天災が続くのは法華経の正しい教えが廃れて法然の念仏が優勢になったからであり、念仏を廃して法華経の正しい教えを広めないと次は他国から侵略を受けるだろうというものです。

 念仏を唱えると自然災害が起きるなどと言うのは現代的な視点で見るとありえない話ですが、当時の日蓮上人としては念仏が流行して日蓮宗的に正しい法が廃れると神仏の加護を失い悪いことが起きるという理屈でそう申していた訳です。

 こうした理由もあり立正安国論の中では法然上人とその著作である選択本願念仏集はすごい勢いでこき下ろされており、浄土教系の門信徒の方には精神衛生上よろしくないので読まないことをお勧めします。この書の中では念仏者は謗法の一闡提と蔑称され、前世のお釈迦様は正しい法を守るために一闡提を殺害したが罪とはならずむしろ正法を守った功徳となった事が説かれています。立正安国論は客人と僧の対談形式で書かれており、流石に僧侶を殺すのはいき過ぎではないかと問う客人に僧は、この話はあくまでも前世のお釈迦様の話だとして、現在いる念仏者を殺すことはせずに法然の系譜の僧に布施をせず、正しい法を守る僧を供養するように勧めています。

 日蓮上人は建長五年(1253年)の立教開宗の直後も安房で念仏を批判する法話を行ったため強い反発を呼び鎌倉へ脱出せざるを得なくなっていました。立正安国論が書かれたのはこの脱出後に鎌倉で活動していた時代のものです。日蓮上人はもちろん鎌倉でも念仏への批判は続けたためにやはり念仏者の怒りをかい、立正安国論が北条時頼に提出された文応元年(1260年)に念仏者の襲撃を受け鎌倉を後にします。これが松葉ヶ谷の法難と呼ばれる事件です。その後も日蓮宗と浄土教との争いは続いていくことになります。この争いは日蓮上人が存命の時だけでなく、松葉ヶ谷の法難より270年以上も後の山科本願寺の焼き討ちにも日蓮宗信徒が関与していましたし、320年近くも経過した安土宗論では討論を挑んだ日蓮宗側が逆に浄土宗側に論破されてしまいます。この安土宗論に関しては詳しく話すと長いので割愛しますが、他宗派に攻撃的であった日蓮宗を他の宗派や織田信長が嫌って仕組まれたとも言われます。江戸時代に入ると寺請制度の成立で日蓮宗の活動性も低下するのですが、この時代は日蓮宗と縁が深い日本画の狩野派や長谷川派が活躍し文化的な貢献もみられました。江戸幕府が滅んで以降は再び活発な活動が行われるようになります。近代の話も面白いのですが、非常にセンシティブなので残念ながら今回は省略します。ともあれ色々あって今では他宗派とも仲良くなっています。

 日蓮宗をその最大の敵であった浄土教系の諸宗派とを比較すると、浄土教は自分がどうしよもない煩悩まみれの凡夫であり阿弥陀如来に救ってもらうしか無いと考えるのに対して、日蓮宗は俺が俺たちが菩薩として世界を理想の仏国土に変えるんだとの意気込みが強く、まさに陰と陽、静と動です。お互いは未だに仲が悪い人が目立つ両宗派ですが、性格の違う人にそれぞれ救いを与えるいいコンビのようにも思えます。今のように災害が続く日本ではともに慈善活動に励んでほしいものです。

 平和が一番!南無佛。

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