ジョーズとコロナ
ジョーズは1975年公開のスピルバーグ監督の映画です。有名な映画なのでご存知の方が多いかと思いますが、簡単にあらすじをお話しますと、巨大なホホジロサメの襲撃を受ける田舎町で危険を過小評価し海水浴場の観光収入のために海開きをしようとする市長と、サメの危険を理解し海開きを中止させようとする警察署長との攻防を軸に話が進みます。まだ見ていない人のために最後のオチは書きませんが、後半でついに巨大サメはあらわれパニックとなります。今日は表題の通り、昨今のコロナ問題とこのジョーズを対比させて考えてみます。
現在、新型コロナウイルス感染症が再び拡大傾向にあるなか、政府と旅行代理店のコロナなんて大したことは無いとの意見により、観光活性化策がとられています。これがさらなる感染拡大を招かぬことを祈るのみです。さて、映画ジョーズではホホジロザメの危険を軽視した市長の判断は誤りだった訳ですが、逆にもし、ホホジロザメが何らかの理由で街を襲わなかったら危険を指摘し海開きに反対していた警察署長は市長や地元の経済人から吊るし上げられていた事でしょう。一方、映画通りの結果でも市長にそんな巨大なサメが来るなんて予見出来たかといえば難しく、続編でも市長のままですので責任はとらずに済んだようです。同じことはコロナ騒動にも言えます。権力と経済力に寄り添った発言をする人は感染防御的には安全とはかぎりませんが社会的には安全です。この感染症での死亡率は今のところ世界平均で4%程度です。仮に人類全てが感染し社会のシステムに深刻な障害が生じたら関連死も含めて膨大な死者数に及ぶと思われますが、これで人類が滅ぶことはまずありえません。その程度!の被害なら大したことではないから経済を動かせと考える人達にとっては、もう今後おきるであろうどんな被害も大したことではありません。しかも、そう考える人は決して少なくは無く、危険に警鐘をならす我々は彼らから見たら吊し上げ対象に決定です。
人の生死を数字や確率でしか理解しないと、人の命を軽く考えてしまいます。そうなると人命は政治的経済的目標を達成するためのコストとしかみなされなくなり消費されていきます。本来は人命を守るために政治や経済の目標は設定されるべきであり本末転倒です。ジョーズの劇中では終盤に市長も反省しますが、それは危険を直接経験した事にもよります。市長は別に悪人でもなんでもありません。人間は欲にとらわれると物の見方が歪み判断を誤るのが普通なのです。
用心用心。ジョーズのようなモンスターは心の内側にもいるのです。
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