上座部仏教に社会性はあるか?

 主に東南アジアで信仰されている上座部仏教の教えでは修行して仏の一歩手前までの悟りの段階に到れるのは僧侶だけとされている。そうでない一般人は僧侶に布施などをすることで功徳を積み来世に良い転生先を得られるようにするという教えだ。

 こうした考え方のせいか、一部の上座部仏教の僧侶からは世俗を軽視しがちな発言が聞かれる。日本に滞在している上座部仏教の高僧も、宇宙開発は無用の下らないものだと言う者までいた。また、日本の上座部仏教の信者からもしばしば、日本の大乗仏教を偽物だ紛い物だと批判する声も聞かれる。

 まあ、たしかに上座部仏教と日本の仏教は違う。上座部仏教のみを正しいと考えていれば大乗仏教は許しがたい偽物なのだろう。大乗仏教の立場からいえばこの批判は遍計所執性によるものだと思う。大乗仏教では僧も在家もともに救われる存在であり市井の生活もまた大切な修行だ。

 数年前に、仏教国であるタイで多数のウイグル人難民が中国に強制送還される事があった。亡命をこころみたウイグル人らが中国当局に引き渡されれば殺されたり収監されたりする。この時、上座部仏教界からは大きな批判は起きなかった。また、ミャンマーでロヒンギャが一部の上座部仏教過激派により殺戮される事件もあった。この時も上座部仏教界からは大きな批判は出なかった。そんな上座部仏教の信者から偽物よ堕落よとの非難に晒されている日本仏教の諸宗派の殆どが、今回のプーチンの侵略戦争に対して戦争反対の意をあらわにしている。一方で、上座部仏教界は今回も目立った批判をしていない。

 大乗かそれ以外かに関わらず、一切の生きとし生けるものの安寧を願うのが仏教の基本のはずだがどうしたことだろうか?これは、上座部仏教の教義上は現世で仏法に出会えずに苦しむのは前世からの宿業であり仕方がないという発想がある為だろう。人々の幸せを願いはするが、まあ来世でガンバレよという感じだ。こうした発想の違いはもはやどうしようもない。別段批判しようとも思わないが、上座部仏教に大乗仏教と同様の社会性を期待するのは間違っているだろう。

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