潜在的暴力

 人間の社会には治安と秩序がある。これらを守っているのは法だ。そして、各国の中で法が滞りなく執行されるのを保証する暴力が警察だ。こうした公的な暴力の力が弱まる場所では私的な暴力が支配する無法地帯が発生しうるので、警察は国中に目を光らせている。

 しかし、例えば各ご家庭の中には警察は理由なく介入できない。だから、暴力で家庭を支配する人間がいれば、その中では暴力を振るう人間の独裁が成立する。もちろん、人が死んだり怪我をしたりすれば警察が介入するのだが、多少の事は民事不介入でスルーされてしまう。そういう家庭では残念ながら、ひどい状態が続くことになる。そして、暴力的に支配を続けた人間(だいたい父親)は、老化によりその体力が落ちた途端に報復を受けることになる。

 では、仮に父親が家庭内で最強の生き物だとして、誠実で道徳的な父親がいる家庭であればこうした問題は発生しないのかと言うと実はそうでもない。立場も体力も大人より弱い子供がわがまま勝手な言動をした場合は、親から教育的に指導されるだろうが、父親が子供と同様につい何かしらのいけない行為をしてもそこまで強くは言われないことが多いのではないか?この子供と父親を分ける差は暴力の潜在的能力の差だ。父親本人に暴力を振るう気が無くても、暴力を振るわれるかも知れないという恐怖を弱者側が持てば、弱者は強者の意に反しにくくなる。そして、圧倒的な能力の差の前に少しも恐怖するなと言う方が無理なのであり、家庭内で最強の人間は倫理的に自らを律する必要がある。逆に、家庭内で最強の存在が他の家族と完全に平等に扱われているのならば、それはものすごく信用されている証だろう。

 家庭だけでなく、こうした潜在的暴力の強さは弱者の自発的忖度を招くのには十分だ。強者が倫理に厳しく縛られる必要があるのはこの為だ。もちろん、暴力とは単に筋力や武器の使用に長けていることのみを意味しない。知的水準の高さも経済力も縁故の濃さも全て暴力になりうる。何かしらの能力に自信がある人間は気づかぬうちに潜在的加害者にならないように用心した方が良いだろう。

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