頓死

 ついさっきまで元気だった人が突然に死んでしまうことがある。それは次の瞬間の私かもしれない。この絶対的な真理の前に人間は無力だ。

 人生は短い、怒りや貪りや無知に起因する争いに巻き込まれることなく心穏やかに過ごしたいというのは大半の人が望むところであろう。

 病気や災害や事故や戦争で突然に亡くなってしまった人を見聞きするにつけ、安穏たる日々の大切さが身に染みる。

 歴史上、多くの求道者は心の平安を望んで山奥などの一人で過ごせる場所に籠もってきた。そのまま、そこで死んだ人も多かったことだろう。

 だが、そこで得た知見を広めて他者も救おうとする者は再び里に降りてくる。一人でなら死ぬまで心穏やかに過ごせただろうに、わざわざ煩悩にまみれた俗世へ戻ろうというのだ。並大抵の利他や慈悲の心では出来ない。

 もちろん、一人で修行して得られたと思った成果は修行者自身の単なる思い込みや慢心である方が多かったはずだ。だが、いずれにしても彼らは人を救うために自らの利益を捨てて帰ってきた。菩薩と呼ぶにふさわしい。

 チベット密教で観音菩薩への信仰心は四つに分類されている。そのうちの一つは「もし自分が観音菩薩の徳を持っていれば無数の衆生が救えるのに」と思うことで求道信仰心と呼ばれる。利他と慈悲は大乗仏教の基本だ。

 簡単に人がバタバタと死んでいく場所でも、心ある人々は助けあい利他と慈悲の心に溢れている。仏教国で無くてもみられるこの現象は、やはり人間には仏性があるのだと思わせてくれる。

 死者に冥福が、生者に慈悲が、世界に平和があるように祈る。

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