仏子よ毒矢のたとえを思い出せ

 仏教者なら聖俗にかかわらずおなじみの毒矢のたとえ、阿含経などにある次のような内容の話です。

 ある仏弟子がお釈迦様に「この世は永遠なのかそうでないのか、無限なのかそうでないのか、心と身体は同じなのか別なのか、仏は死後もあるのかないのか、お釈迦様がそれに答えられないのならもう修行はしません」と言いました。お釈迦様はその質問には答えずに、あるたとえ話をします。
 もし毒矢に射られた人がいて医者が彼を治療しようとした時に、毒矢に射られた人が「この矢を射たのがだれなのか、どんな弓を使ったのか、どんなやじりがついているのか、どんな弦がつかわれたのか、矢羽はどんな鳥からとられたのか、これらがわからない限り自分は治療を受けない」と言ったらその人は死んでしまうだろう。
 要は、人の命は短いのだからまず苦を滅することが先決だという話です。

 さて、この有名な話を仏教者は今おもいだす必要があります。ここ数日の間、多くの仏教者が戦争反対の声を上げています。人を殺しても殺さしめてもいけないという仏教の思想では当然の話です。ですが、一方で、この戦争の是非が分からないから言及しないと表明する仏教者もいます。この状況で何が分からないのか逆に疑問ですが、何にしてもウクライナに刺さったロシア軍という矢を抜くのが先決です。

 今回の戦争はプーチンが起こしたものです。使った武器も明確です。なんなら理由だってプーチン本人が言っています。それは「ウクライナなんて国は存在しない、アメリカの軍事拠点となっている」という荒唐無稽な陰謀論でした。この状況で実はプーチンはいい人かも知れないしウクライナ国民は全員悪魔なのかも知れないという妄想にとらわれ、それが本当かどうか確認されるまでは指をくわえて侵略戦争を放置するというのは明らかに間違っています。

 毒矢が刺さっている人がいたら先ず助けろ。

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