唯識無境の無境
大乗仏教で言われる「唯識無境」はこの世界は識のみで成り立っており外界に存在する物はないという意味だ。つまり心が世界全体であると言っている訳だが、これはしばしば誤解を招いている。特に、この世は「自分」の妄想に過ぎないとする誤解が最も多い。唯識論では「自分」というものも妄想に過ぎないのだからこれはおかしい。唯識では考えても故に我ありとはならないのだ。また、この世は思い込みで成り立っているので世界を好き勝手に改変できるという誤解もあるが、世界が識のみで成り立っていても別に学校で習った物理法則が突然変わったりはしない。こうした誤解を放置すると、他者なんて自分の妄想だから殺そうが奪おうがどうということはないとする極論にまで行き着くので危険だ。ちょっとその誤解をといてみよう。
唯識論では個々人が認識する物は全て心が作り出すと考える。違う人も同じ物や世界を見ているのは共通する種子と呼ばれる因子が無意識の中から育って意識されるからだという。この個々の心から出た共通認識はその後も共通であり続ける。例えばAさんが花瓶を壊した時に、花瓶を割ったAさんにとっては花瓶は割れており、それを見ているBさんや後でそれを見ることになるCさんにとって花瓶は割れていないなんてことは起きない。皆がその花瓶を壊れていると認識するのはそれぞれの人の種子に働きかける増上縁と呼ばれる縁があるからだとされる。認識の元となる種子は無意識の中で自己増殖したり、意識下の経験から無意識に還元されたりして、結局のところは全世界の事象は種子として各人の無意識に溜め込まれていることになる。この考え方はいかにも宗教的であり、科学的に分別された考え方では自己の精神の中に森羅万象が収まっているとは考えにくい。だが、科学的視点をもってしても人は認識の外には出られないことには違いない。
唯識無境の無境に注目してみると良い。境が無いのだ。識の限界が世界の果てだ。当然だが、我々が観測あるいは想像できる全ての事象は我々の識を超えては存在しない。未だ発見されていない未知の事実があったとしても、技術の発展で認識できる範囲が増えたとしても、識が捉えうるものしか我々は知り得ない。しかも、いかに科学的に誤解のないような記述でそれらを表現したとしても、言語は記述したい事象そのものにはなりえない。我々はどこまでもバイアスから逃れられない。先人が唯識論にたどり着いたのは言語や分別を離れて禅に打ち込んだ結果だ。
結局の所、もし世界が心の反映に過ぎないとしても、それが唯識論に準拠したものであれば、世界は自他も有無の差も無いのだから、貪ったり怒ったりする意味も無くなる。他者を徒に害することも起こり得ない。古来から大乗の仏教徒もまず戒を受けるようになっていたのは、唯識がおかしな方向に誤解されないようにするためでもあったのだと思う。
また、唯識無境という言葉が大きな誤解を生む原因の一つに、唯識で言う法を物質と解釈することがある。法は一般で言うところ物質の意味もあるが、仏法の法は真理の意味でもあり、不変でその状態を保つ存在と言った方が正確かもしれない。現代科学では質量を持つ物質が永遠不滅で無いのは自明の事だ。移ろい行くものを不変だと考えるのはハナから間違っている。唯識で説かれる一切の諸法は識を離れないというのは、物質は心が生み出した移ろいゆく存在だと解釈だが、心が生み出したかどうかを除けば、科学的に間違っている訳でもない。唯識無境は極論すれば諸行無常の言い直しだ。科学的には質量も寿命も無い光子だって自然には崩壊しないというだけだ。唯識無境は、自分の脳の外側に移ろいゆく物質が存在しないと言っている訳ではない。
ここまで唯識論と現代科学の類似点を強調する形となったが、両者はもちろん別物だ。阿頼耶識や種子やその薫習は人の無意識を考える上では興味深い発想だが科学的妥当性は乏しく、それによる業の継承や転生の話になってくると科学ではなく信仰の問題となる。
ただ、唯識における言葉や認識の危うさに注意する考えは、バイアスの排除に役立つ。一般人は唯識論を偏見や執着を廃する理論体系や瞑想のガイドライン的に利用するのが望ましいだろう。陰謀論や自己の煩悩を正当化するツールにしている人は間違った理解をしている。
コメント
コメントを投稿