金剛般若経
金剛般若経は初期の大乗経典で、内容的には「空」を説きながら「空」の文言は登場していません。このことから金剛般若経は「空」の概念が出来上がりつつあった西暦150〜200年頃に成立したと思われます。以下に簡単に解説していきます。
この経典は釈迦と弟子の須菩提の問答を軸に話が進みます。序盤から自己と他者の区分や分別を否定しており、初学者には難しい内容となっています。すなわち、菩薩が全ての生き物を救おうとして、実際に救っても実は誰も救っていないとされます。なぜかと言うと、救うということは救う自己と救われる様々な他者が存在することになり、そのような無常である自他の概念に執着するような者は菩薩では無いという理屈です。
次に五感や思想によった布施をしてはいけないと説かれています。布施とは本来は執着を捨てる為の修行ですからこういう話になるのです。(布施は募金や投資とは違うのです。「自分」がこんな「善いこと」をしました皆さん見てくださーい!と強調するような布施は布施ではなく宣伝です。)
さらに仏に備わると伝えられる身体的特徴が全て虚妄だと断じ、分類された特徴を特徴ではないと見ることで物事をありのままに捉える事が出来ると、分別が虚妄を生むことを指摘しています。続けて須菩提が、後の世の正しい教えが衰退したあとにこの経典の説く内容を理解する人がいるだろうかと心配したのに対して、お釈迦様が正しく理解できる人はいると告げます。その理由として、これらの優れた人は繰り返された転生で積んだ功徳の結果、全てのことに対する執着を離れているかだと説明されます。仏法でさえもそれが役目を果たした後は捨てるようにと執着を離れることを強調しています。
次に仏法が言葉では説明できないものである事が説いてから、この教えから四行詩だけでも取り出し人々に説明するのは、ものすごく功徳があると続けています。この流れは一見矛盾するように見えますが、仏法そのものは言葉で表現できなくても、それを伝えるために言葉の否定に執着するのは現実的ではありません。この後、この経では有名な四句否定の原型を見るかのような例えが続きます。仏法は仏法ではないという話にはじまり、仏に至るまでの修行者の階位をたとえに、その位にある修行者が自分がその位にあると思うことはないという話がされていきます。自我や物事に執着した心を起こしてはいけないということです。
続けて、これまでのまとめを説いたあと、あらためて自己やその他の諸々に執着しないことを説きます。そして、この経典を記憶し、唱え、理解し、伝えることの大切さが強調されます。そしてこれらを復習するような問答が続き、様々な執着を否定し、世界そのものを全体で一つと見るのも執着であると説きます。
そして金剛般若経の最後の偈文は以下のものです。
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