悟りと諦め

 あきらめは何らかの意思を断念する場合に使われる言葉だが、漢字で書いた場合の諦めるの「諦」は物事を明らかにするとか真理とかの意味になる。

 しかし、一般的な意味で物事を諦める時も、そこには一つの真実が明らかになる。それは何事も自分の欲望のままにはならないということだ。無限の財や権力を得ることも、誰かを無限に生かすことも、それをどんなに望んでも出来はしない。

 頑張れば出来ることを諦めるのも問題だが物事には限界がある。私が生まれた時からどんな英才教育を施されていたとしても、ウサイン・ボルトより速くは走れないし、朝青龍と喧嘩をして勝つこともない、藤井聡太に将棋で勝つことも出来ない。そんなのは地面にパンチをして地球を割る努力をするようなものだ。もっとも、その努力の過程で培われた能力は他の仕事などに役立てることも出来るだろうが、無理なものは無理だと諦めるのは、より良く生きる為に必要なことだ。

 欲望といっても、例えば生きるのに必要な適度な食欲は問題ない。だが、必要以上に貪り食うのは奪いとりや不健康を招くので避けたいものだ。また怒りの対象を破壊しよとする欲望も容易に人を傷つける恐ろしいものだ。無限に湧き出る怒りや貪りの煩悩に起因する欲望の全てを満足させることは不可能だが、持っている煩悩を捨て去りその欲望を諦めるのは可能だ。

 煩悩を無くした穏やかな状態の極地が悟りだから、諦めとは悟りに近づく行為だと言える。しかし、煩悩を捨て悪いことをしないよう精進するなどの必要な努力は諦めてはならない。

 また、科学の研究はそれ自体は善いも悪いも無いが、人間は科学技術を用いて、飢えや病や苦役を減らしてきた。戦争にも使われてきたが、生活が昔よりも明らかに楽になっているのも科学の恩恵だ。科学の発展に尽くすのもまた人のために役立つ。使い方を誤るのが問題であり、それは科学ではなく倫理の問題だ。科学の研究は利他主義の大乗仏教の心にかなうといえる。たとえ研究の結果が出なくても諦める必要はない。失敗した記録でも共有すれば後の研究には活きるものだからだ。また、大乗仏教も受け継ぐアビダルマの仏教は単に哲学的宗教的な思索だけでなく、現代で言うところ自然科学の分野も内包していた。もちろん、現代科学から見れば間違った内容だが、科学研究や学習も真理を明らかにすると言う意味で諦めることであり、科学の研究には高い倫理性も要求される。こうした意味で科学は仏道修行につながる物がある。

 たまには気持ちよく色んな意味で諦めてみるのも良いものだ。

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