美しい

 いわゆる美人は、世間から外見が美しいと評価されるだけではない。彼女らには様々な罵声が浴びせかけられる。ちょっと可愛いと思って好き勝手にやっているだとか、出世でもしようものなら美人だから引き立てられたとか、資産家と結婚すれば相手をたぶらかしたとか、そりゃあもう無茶苦茶な言われようをされる。さらに、次々と言い寄ってくるストーカーまがいの怖い男どもをいなす技も必要だ。そんな攻撃に耐える強い精神力と、実際に評判を落とさないための知性と教養を兼ねそ備えていないと美人は美人とは呼ばれないものだ。批判だけしている人間とは苦労の度合いが違う。実際に美人の方が社会的に優位な立場に立つのは遺伝的素養だけでなく、こうしたすさまじい努力の成果でもあるのは覚えておいてほしい。外見だけ良くても中身がアレならそんないい目にはあわない。外見という遺伝的要素は体力や知能などと同じで、それを持っているからというだけで批判されるいわれはない。

 しかし、最近では人の外見を美しいと言うのも醜い者への差別だとしてルッキズムであると批判されるようだ。だが、美醜の判断というのは著しく主観的なものであり、ある人が美しいと思った物や者が、他の人にもそうである保証は無い。私が大学生の頃にこの世で最も美しいと信じていた女性は、同級生たちに言わせるとそうでもなかったそうだ。仏教者たるもの二項対立につながる偏見は避けるべきとの意見もあろうが、それが遍計所執性(言語に基づく分別で非実在)だと分かっていれば差し当たり問題なかろう。科学的視点でも美は絶対的な値として定量化される類のものではない。そんな曖昧な美について個人の感想すら制限されるのは人権侵害と言っても過言ではない。また、こうした美に関わる表現を完全に規制すべしとの思想は芸術の否定にもつながる。

 一方、審美眼には大きな個人差があるとは言え、時代や地域によりある程度の傾向というものはあり、それで得をする人も損をする人もいるのは事実であろう。そこで損をした人は機会を平等にしても仕方がないので結果の平等を訴えるのも納得できる話ではあるし、それに同情した人がそうあるべきだと思うこともあるだろう。そういう人達が美を否定する価値観を持つのは自由だし、仲間内のコミュニティを形成するのも自由だ。だが、社会全体が美を否定するように強要するのは勘弁願いたい。美を主張する人は美が多様で相対的であることを知っている。美の多様性を否定し、美そのものも否定し尽くした社会の行き着く先は思想統制されたファッショだ。寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない。

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