科学と仏教

 科学は言語で表現出来ない物は扱えない。人間の認識の外に何かしらの真理があっても、人間は五感で得た情報を統合して言語的に思考しそれを推測するしかない。人間は自己の認識の外に出ることは出来ない。

 思考には言語が必要だ。非言語的思考もあるだろうが、論理的思考には言語は不可欠な存在だ。科学の限界はほぼ言語の限界に等しいと言える。言語に縛られない真理を扱うのは非科学的であり、概ね宗教の役割だ。宗教は科学の対極と思われがちだが、仏教は必ずしも科学とは対立しない。一部の部派仏教などは科学のことを無用なものと目の敵にしているがそれも歪んだ認知だ。

 大乗仏教の唯識論では言語的な分別は妄想や執着に過ぎないとされる。人間が自己の認識の中に閉じ込められている存在である以上、言語で真理を正しく言い表すことが不可能だからだ。何者かに名前をつけて一般化すると認識は名前に引っ張られて正しく見ることが出来なくなる。例えば、何とか民族は敵だとか、坊主は丸儲けだとか、大学の先生は高慢だとか、そういう言語的な先入観に縛られると歪んだ認識しか出来なくなる。仏教の八正道の第一にして修行の目的でもある正見(偏見無く正しく物事を見る)は他の七つの正道と関連しているが、正見を得るために直接的に必要なのは第八番目の正定でありこれは非言語的な瞑想だ。仏教が偏見を嫌うように、科学の実験も偏見を断たねば誤った結果を出しかねない。自分の予想通りの結果であって欲しいとか、こうであったら業績が認められるとか、これで金儲け出来るなどという邪念が心にバイアスを生むのだ。煩悩を断つ仏道修行はきっと科学の発展にも寄与出来るだろう。

 俗世間の日常生活も重んじる大乗仏教の視点では科学が発展し人々が幸せに生きやすくなるのは大変よいことだ。科学と仏教はお互いに対立すること無く助け合っていけるはずだ。科学者ならば分かるだろうが、科学実験には公正さや高い倫理性が要求される。科学者は仏教者に向いている仕事だと言える。また、世に仏法を説いても人々の空腹を救う事も病を治すことも出来ないが科学にはそれが出来る。素晴らしいことだ。

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