余計なお世話
利他的な行為はしばしば偽善だとか余計なお世話だとか言って批判される。批判するのは他者の利他的行為に迷惑している本人だったり、まったくの第三者だったりするが、基本的には個人主義を優先し、他人への介入を嫌う姿勢だ。現代日本では自己責任論が強く、一見すると利他行為の否定は正しいかのように思えるかも知れない。
しかし、この考え方はイジメ問題などでいじめられる方にも問題があるとか、痴漢の被害は女性も悪いとかいう、極端な発想に行き着きがちだ。いじめられている子を助けるのも痴漢被害者を助けるのも利他的行為で、加害者側の意図を挫く他者への介入だ。
利他的行為の全否定はつまるところ強者全取りの支配構造を是とする思想でしかない。もし自身の利他的行為で相手が迷惑がればその時やめれば良いだけだ。臆せず利他行為に励めばいい。
他人がどうなってもよいという無関心さは、社会問題を深刻化させる。気がけて利他を強調する必要があるのは、人間の弱い心では注意しないとすぐに他人を見捨てる事に何かの言い訳をつけようとするからだ。
また、仏教的に考えると利他行は布施行であるべきだ。こちらの行為に対して相手が不満を言っても気を悪くするのは本末転倒だ。利他行は見返りを求めてはいけない。そういう邪心が起きる時は慈善事業のネット募金など、第三者から利他行がわかりにくい事をしてみるのもいい。求めてはいけない見返りとは直接的なものでなくても、利他行をする自分を周囲によく見せたいというものもあるからだ。古来から陰徳が重んじられたのは、目立つようにする善行はなにかしら有形無形の見返りを求める邪心が起きやすいからだ。もちろん、目立つからといって苦しんでいる人を見捨て悪を野放しにしてはいけない。目立ってしまう場合もやる時はやらねばならない。
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