懺悔
人間誰しも失敗する。その際に迷惑をかけた人に謝罪することが出来れば良いのだが、そうもいかない事がある。
例えば、電車の運転手のミスでダイヤが乱れたら、利用者にはあまり気にしない人から遅延のせいで人生に大きな影響が出てしまった人までさまざまな人がいるだろう。都会ならば影響を受ける人は万人に及ぶかもしれない。その一人ひとりに運転手が謝って回る必要は当然ない。会社が状況を説明・広報すれば済む話だ。だが、その運転手は責任を感じ気を病むかも知れない。国鉄系企業の悪名高い日勤教育は、個人の良心と責任感につけこんで会社の管理責任を末端の労働者に押し付ける洗脳的懲罰だ。
ヒューマンエラーは必ず起きる。それを防ぐためには仕組みの工夫をすることが第一であり、現場の人間を精神的に追い詰めてはならない。個人への懲罰を強めれば、エラーやそれに至るかも知れない危険性は管理職に報告されなくなり、やがて重大なエラーが頻発することになるだろう。
とはいえ、エラーをしてしまった者はやはり気にしがちだ。これは人として自然なことで、逆に全く気にしないのもどうかとは思う。
他にも雑踏の中で誰かの足を踏んだように感じても人流に流され相手が良く分からない場合は、謝ろうにも同様の加害/被害者は山程いて特定出来ない。お互い様だと割り切れればいいが気がかりで仕方がないこともあるだろう。
もちろん個人の責任が明らかな場合はまず責任をとるのが先決だ。しかし、慙愧の念は残るだろう。
こうした心のモヤモヤを解消するためにも神社や仏閣はある。神仏の前で静かに手を合わせて懺悔を聞いていただくだけでも精神衛生上よろしい。
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