責任能力
重大な事件の犯人に精神鑑定が行われた結果、心神喪失あるいは心神耗弱と認められれば、責任能力が不足しているとして裁判で無罪になったり減刑される事がある。こうした場合、世論は判決が理不尽だとして怒り、その矛先がその犯人が有していた精神疾患の患者全般に向けられる事もしばしばだ。
一方で、責任能力の欠如に関して世論が同情的になる場合もある。以前、認知症の老人が徘徊し鉄道事故を起こした時に鉄道会社が家人へ賠償請求を行った事があった。認知症患者は責任能力が無いから、その管理者たる家族に賠償請求がなされたのだ。結局、家人への賠償請求は撤回されたが、世論は概ね家人に同情的だったし、徘徊老人がケシカランなどとする意見も少なく、仕方ないという意見が多かった。
また、アメリカなどでは幼児が誤って人を射殺する事件もたまに起きるが、もちろん彼らに責任能力は問えない。親の管理責任だし、世論もその幼児のケアに気を配り、悪虐非道の殺人者だのと罵られる事は通常はない。日本の奈良時代の法律でも数え10歳未満の子供は死罪になら無いとあり、責任能力を問えない者を裁きようが無いとする考えは昔から存在していた。しかし、現在の少年法では責任能力を問えるであろう成人に近い年齢までその保護の対象となっているので、凶悪な少年犯罪が起きた時は批判の対象となりやすい。
また、未治療で症状が安定していないてんかん患者は運転免許が停止となる。これは交通事故を防ごうとする理念によるのだが、てんかん患者がその発作により交通事故を起こしても責任能力が無いので、運転そのものを法的に禁止しそこに責任をおく意味もある。なお、治療介入して発作が起きないであろうと判断されれば免許も戻ってくる。日本ではそのための観察期間は2年であり他国と比べて長めだ。以前、自分にてんかんがあると知りつつ薬も飲まずに運転し人身事故を起こした医師がいた。こうした事件が起きた時に、まじめに治療に励む患者も十把一絡げにしててんかん患者全体を叩く世論が形成される事があり配慮が必要だろう。てんかん患者は差別を受けやすい。例えば、狭心症があるのに治療せずに喫煙や暴飲暴食をし不規則な生活を送っている人が運転中に心筋梗塞を起こして重大な事故を起こしても、てんかん患者が事故を起こした時とうって変わって、世論は狭心症患者は悪虐非道だと叩かないばかりか心臓発作なら仕方ないと同情的ですらあるし、個人の病状について事細かに報道もされない。まあ差別だと言っていいだろう。
刑法の理念として責任能力が無いものは裁けない。問題となるのは責任能力の有無の判断が本当に正しいのかだが、ここでも疑わしきは被告の利益にという原則が適応されるから精神鑑定で責任能力ありと断言されない限りは無罪や減刑になりやすい。司法の判断としてはそれで間違っていないのだろうが、無罪となった患者が行政処置入院となれば退院には慎重な判断をすべきだ。医療的な判断は安全性に重きをおく、冤罪回避を重視する司法とは立場が違う。
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