言葉への執着
このブログでもたびたび書いていますが、ヘイトスピーチをする過激な団体はしばしば表現の自由を盾に、自分たちの憎悪犯罪を社会に認めさせようとします。しかしながら、寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容には不寛容であらねばならないのです。ヘイトスピーチは表現の自由の枠外なのです。だけど、「表現の自由」という言葉に執着してしまうと、日頃は寛容で良識的な判断をする人でも、ヘイトスピーチの権利を擁護し、いわれなき他者への攻撃に加担してしまう事があります。
これは思考を放棄して「表現の自由」という言葉に執着するからおきる悲劇と言えるでしょう。表現の自由は絶対に守らなければならないという思い込みが、思考を停止された結果です。他人を侮辱したり、信じれば人命に関わるような誤情報を吹聴する自由などあってはなりません。それを規制するのは当然であり、表現の自由は絶対ではないのです。
大乗仏教では言葉にとらわれないという龍樹以来の伝統があります。馬鳴の作との伝説がある大乗起信論でも言葉のもつ危うさは指摘されています。すなわち、好き嫌いの偏見によって生まれた快・不快の妄想に執着し、それに名前をつけることで本質を分かったような勘違いを起こし、その言葉に惑わされて更に迷ってしまい自由を失うというものです。
例えば、不愉快に思う相手に「敵」という名前を与えてしまえば、相手のあらゆる行動は敵のそれとしか見られなくなります。危険を適切に認識するのは重要な事ですが、なんでもかんでも敵あつかいして攻撃すれば、本来は無用の争いを招くことになりますし、是々非々で協力できたかもしれないことも全てなくなってしまいます。状況の判断が敵という言葉に引っ張られて歪むのです。もちろん、実際に襲いかかってきている人や集団は当座は敵と見做して問題ないのですが、本質的には敵と味方は明確に分離できません。裏切る可能性のない敵も味方もいないのですから、そのようなラベリングに執着すると判断を誤ることになります。味方とのラベルを信じ込み、相手の気持ちも考えずに無茶な命令ばかりしていれば、知らないうちに敵になっていたということもあり得るのです。今、たまたま味方をしてくれる人がいるのならば、大切にしてあげるのが良いでしょう。敵も永久に敵とは限りません。許しあう心も大切にしましょう。
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