戯論

 人生は短いものです。考えても無駄な事に心と時間を占有されていては一瞬で何もせずに終わってしまいます。

 遺教経の中でも不戯論が説かれているように、無駄な言論である戯論は避けるべきです。戯論による結論の出ない論争を繰り返せば、無意味に時間を浪費するだけでは済まなくなります。戯論による論争は、論理によって決着がつきません。元から非論理的だからです。論争で決着がつかないと人は往々にして感情的になり物理的な戦いに発展することすらあります。

 戯論は避けるべきというのは間違いないのですが、戯論に取り憑かれた人は自分の考えが戯論であることに気がつきません。我こそは正論を言っていると思って戯論どうしを戦わせるから終わりなき戦いに繋がるのです。

 では、戯論はどうやって見破ればいいでしょうか?大乗仏教的に見れば、原因と縁により結果が生じると考える縁起の思想や、それらは全て移ろいいくと諸行無常の考えに基づかないものは戯論と言っていいでしょう。仏教的な話でなく、より卑近で日常的な話でもこの考え方は大切です。原因や条件を考慮せずに感情的に結論を決めつけている論は、ネット上でもしばしば見られます。また、状況の変化により以前の状況では正しかった論が現在も正しいとは限らないという事を認識せずに、識者の言説が以前と変わっていると激しく非難する人もよく見られます。

 一方で、仮説を立てて検証することは戯論ではありません。ただし、単なる仮説を確固たる真実のように語るのは戯論です。また、仮説にもレベルがあります。実際に確認された現象に対して、論理的に矛盾が無い原因や条件を推測して、それを確かめる努力をするのは、今起きている現象への対策や利用を進める上で大切な事です。しかし、世の中には自分の欲望に基づいた単なる妄想を仮説だとか著しくは真理だなどと言って周囲を攻撃する輩もいます。

 逆に必要な考えるべき事を戯論として忌避する人もいます。宗教家に多い印象がありますが自然科学を敵視する執着をもった方々は世俗の事を低く見ています。在家主義である大乗仏教ではこのような偏見は避けたいものです。

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