仏法僧は仏教の基本
仏と法と僧のいわゆる三宝への帰依は仏教徒になるための条件でもあります。日本仏教の祖である聖徳太子も十七条憲法の第二条に「篤敬三寶 三寶者仏法僧 (篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり)」とあるように、仏教が日本に伝来してからもこの基本は共通しています。仏教徒となるにはこの三宝への帰依に加えて、受戒(在家の場合は五戒の受持)が必要とされます。
しかし、仏教の基本中の基本である仏法僧にも時代や地域や宗派によりいささかの見解の差があります。
まず、仏とは一般的にはお釈迦様のことです。しかし、大乗仏教ではさまざまな仏様がおり、浄土教系の宗派で仏様と言えば通常は阿弥陀如来が意識されますし、他宗派の寺院でも多くは特定のご本尊がいらっしゃいます。また、如来蔵思想に基づけば我々一人一人の中に仏はあります。禅宗系の宗派では生死の中に仏や涅槃を見出しますので仏が示す範囲は限りなく広く、法華宗系の諸宗派でもお釈迦様はインドで法を説かれた存在だけではなく世界に常住の仏と考えられており、密教系でも究極の仏である大日如来は世界と同義であり、一言に仏と言っても人によって印象は異なるわけです。ただ、仏は真理を体現した存在である事には変わりありません。
法は、こうした仏が説いた教えですが、これも宗派ごとに重視する経典やその解釈に相違があります。ただ、どんな宗派でも煩悩を原因として苦が生まれ、煩悩を滅すれば苦もなくなるという縁起の考え方は共通しています。これから派生して、物事は全てうつろい行き、その中に確固たる自己という存在は無く、煩悩と苦に満ちた状態を滅した悟りの状態は安穏であるとする考えがあり、この三つが仏教の最小要件とされています。宗派による法の解釈の相違は共通する悟りという目標に向けた方法論の差とも言えます。
僧は通常は出家したお坊さんのことですが、在家でも同じ教えを戴く同朋に対してお互い敬意を持つという意味でも使われることがあります。いずれにしても仏と法を守り伝える僧という存在は貴重です。
さて、この仏法僧をそれぞれ独立した存在ではなく同一と捉える考え方もあり、同一三宝や一体三宝とも呼ばれます。大乗の涅槃経にも「慈即佛性佛性即法 法即是僧僧是即慈 慈即如来 (慈は仏性であり仏性は法であり、法は僧であり僧は慈であり、慈は如来である)」という文言があり、人にも仏性があるという思想では辻褄が合う考えです。これとは違い三宝はそれぞれ別の存在だという考えは別体三宝などと呼ばれます。また物質として存在する仏像と経典と僧侶を三宝とする考えを住持三宝と言います。このように様々な解釈はありますが、仏と法と僧の理念には大きな差はありませんので言い争うのも無粋というものでしょう。
三宝への帰依は仏教徒の基本ですが、人はしばしば基本を忘れて奇を衒った行動に走りがちです。先の三宝を示す涅槃経の文言にもあるように日頃から慈悲を忘れ無いようにして参りたいものです。
コメント
コメントを投稿