悪口と批判

 何か問題がある事に対して批判をするのは間違っていない。誤ちは正さねばならないし、公に批判することにより、批判そのものの妥当性もまた評価される。むしろ、間違いに対して見て見ぬ振りをする方が問題だ。だが批判と悪口は紙一重だ。その批判は本当に批判なのか、誰かへのヘイトの為に、相手の言動に一々難癖をつけているだけではないかは自省せねばならない。

 世の中は是々非々だ、全ての言動が間違っている人間なんていない。極悪非道の不良が捨て猫を拾って育てていたらそれはそれで評価すべきだろう。

 力を持つ人間は、自分の意見を通しやすい。その力は状況によっては筋力だったり経済力だったり政治権力だったりする。より強い人間であればある程その行動により支持してくれる人も増えれば、反対する人も増える。賛成反対は個別の案件に関して検討されるべきものだ。もし、ある人の意見が日頃から自分の意見と合わないからその人そのものが嫌いだと思っては物事を冷静に見られなくなる。言動にではなく、個人に対して憎悪を向けると、その人が良いことをしようが悪いことをしようが妨害しようとするだろう。個人への憎悪に基づく批判は、やっている人達は正しいことをしているつもりでも、他からは個人攻撃のヘイトであると容易に看破される。その批判は反対ばかりで軸も理念もない悪口ばかりだからだ。

 自分達が悪と戦っているのに多くの人は理解してくれないと嘆く人は、知らず知らずのうちに自らがヘイトクライムを犯していないか省みても良いだろう。

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