毒と薬の例え

 浄土教系の教えでは、煩悩にまみれた凡夫でも阿弥陀如来の本願により救われるとされています。このため、古くからどうせ救われるならどんな悪逆非道な行いをしても問題ないと誤解する人がいました。これを批判した文章で有名なものに親鸞の毒と薬の例えがあります。この文章は親鸞が門徒に送った手紙に書かれていたものです。

 原文では「煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」となります。

 現代語訳では「煩悩だらけの身だからと、心を制御せずに、してはならない事を行い、口にしてはいけないことも言って、思ってはいけないことも思いながら、好き勝手にしても良いなどと言うことは実に至らない考え方で、酔いもさめないうちに酒を勧めたり、毒が消えないうちに毒を勧めるようなものだ、薬があるから毒を好めということはあってはならない」という風な感じです。

 この文章で面白いのは、心にまかせてしてはいけないこととして、身にするまじきこと、口にもいふまじきこと、心にも思ふまじきこと、があげられており、これが仏教における悪の分類である十悪に対応していることです。十悪も身と口と意(心)によるものに分かれています。内訳は、身に由来するものとして生き物を殺すことと物を盗むことと邪な性行為の三つがあり、口に由来するものとして誤った言説と悪口と二枚舌と上辺だけ飾った言葉の四つ、意に由来するものとして貪りと怒りと愚かさの三つがあります。親鸞のこの批判は実に基本に忠実なのです。

 浄土真宗はしばしば仏教のルールを守らないアウトローだとの批判を受けがちですが、守らないのではなく能力不足で守れないだけで積極的にルールを破りに行っているわけではないのです。ルールを守れないことに対する慚愧の念と、そんな酷い人間を救ってくれる如来の慈悲に対する感謝が、浄土信仰の基本フォーマットです。浄土教への批判者はしばしば正しい仏教者の自分は完璧に戒律を守り善を積んでいるのに浄土教はなっていないとしますが、本当は不完全にも関わらず自分は完全だと驕りたかぶっているだけです。浄土教信者はどうしても自分の誤ちを見つけてしまう深い自省があるのです。

 とは言え、アンチ浄土教の人達が言うように、実際に浄土教の信者のなかには、どうせ救われるから何をしても良いと誤解する人が昔からおり親鸞聖人も嘆いていたのです。

 さて、この文章の後半では、酔いも覚めぬうちに酒を勧めるという例えが出てきます。これは、凡夫は端から酔っ払ったような状態だと言っていることになりますが、逆に考えると酔いは覚めかけていることになります。先述の通り、日々自分の至らなさを反省する浄土教の門信徒は徐々に身口意の悪行を控えるようになります。このことが酔いが覚めるとの比喩表現になっていると考えられます。

 どんな優れた考え方も曲解されることはあるものです。日々注意して参りましょう。

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