父母未生以前

 昨日、沢庵和尚の話をした流れで、本日は沢庵和尚が武士に説いた法話集「太阿記」からお話をして参ります。

 表題の父母未生以前は一般の禅語です。自分はもちろんまだ両親も生まれていない時の意味で、それから凡俗、善悪、有無などの概念的把握を拒否する悟りの本体を示す言葉として使われます。私達が自分だ我だと思っているモノは様々な概念的把握の上に成り立つ無常で本体のない思い込みでしかないのです。

 さて、そんな父母未生以前ですが、太阿記の中で兵法者について語ったところでも見られます。現代語訳では「兵法者とは勝ち負けにこだわらず、強い弱いにこだわらず、動かずして勝つものだ。人間的な偏見にとらわれた敵の自我からでは、こちらの真の我を見ることは出来ない。また、こちらの真の我は敵の自我による兵法を見ない。これは敵を見ないと言っているのではなく、見て見ないようにするのが良い(不動智と同じこと)ということだ。さて、ここでいう真の我とは天地が分かれるより前、父母未生以前の我だ。この我は自分にも鳥獣などの動物や草木などの生き物の一切にある我だ。これはすなわち仏性のことだ。だからこの真の我は影も形も生も死もない。肉眼で見えるものではなく、悟った人のみ見ることができる。それを見たひとを見性成仏(仏性を見ることで悟る)の人という。」となります。

 要は武道の心を悟りへとつなげている訳です。スポーツ競技などでも勝ち負けや強弱への執着からくる不安感や焦りは競技そのものへの集中力を欠かせるものであり、心を自由にしてこだわらないのは重要なことです。兵法だけでなく、日々の仕事や学業にも同じ事は言えそうです。

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