因果応報と公正世界仮説
縁起の思想は仏教の基本で、物事には必ず原因があると考えます。この世は苦しみであり、その苦しみの根本の原因が煩悩であるから、煩悩を滅すれば苦しみも消えるという図式は初期仏教から変わらぬ構図です。
この世の中の原因と結果は必ずしも一対一ではなく多くの原因と結果が複雑に関係しあっています。また、なにかの原因も元は他のなにかの結果であり、今うまれた結果は新たな原因となっていきます。大昔の知らない人がどこかでした咳払い一つがドミノ倒しのようにして、現代の私達の生活に影響を及ぼしている可能性もありますが、そんな影響は山のようにあって一つ一つの力は微々たるものでしょう。ですが雨粒の一つ一つが集まって鉄砲水をもたらすことがあるように、小さな力の集積は巨大な力となるのです。一人の人間が煩悩を小さく出来ても差し当たりその一人の心が落ちつくだけですが、一人の精神の安定は周囲の人にも良い影響を与えます。みんなが煩悩を小さくすれば社会的には大きな影響が現れるでしょう。
よく善因善果、悪因悪果と言われるように、善い行いには良い報いが、悪い行いには悪い報いがあるとされます。
例えば、過度の飲酒により、脳や肝臓や膵臓を痛め死ぬ人もおります。この場合は飲酒が原因となって病気となったので悪因悪果と言えるでしょう。大量に喫煙して肺気腫を患い酸素吸入が必要な状態でもタバコをやめられずに火災になり死んだ人も悪因悪果です。しかし、飲酒や喫煙だって、それを原因として病気になりやすい人となりにくい人がおり、その報いは不公平極まりないものです。努力で病気になる確率を下げることはできますが絶対ではなく、聖人君子でも残虐非道の殺人鬼でも病気も怪我もしますし、いずれはみな等しく死にます。
逆に善いことをして気持ちが良くなるのは善因善果です。別に善いことをしたからと言ってお金持ちになったりすることは直接的にはありませんが、日頃から善行をしていると人間としての信用が増し仕事がしやすく成るという効果も善因善果と言えるでしょう。ですが、何か見返りを求めるような心で行った事は元より善行にはなりません。即物的な結果ではなく、煩悩を小さくすることで物事をなるべく中道に見ることが出来るようになるのが強いて言うなら善果ですが、結果ばかりを求める心も貪欲という煩悩です。
正義は必ず勝ち、悪は必ずその報いを受けるという誤った考え方を公正世界仮説と呼びます。そもそも正義や悪の定義が各人で違っている時点でどうしようもありませんが、公正世界仮説にとらわれると、病人や犯罪被害者などの助けてあげるべき可哀想な人達に対し、苦しい目にあっているこの人達は以前になにか悪いことをしてその報いを受けているのだという歪んだものの見方をしてしまいます。もし仮に、過去の行いが本当に悪かった人が凶事に見舞われたとしても、それをみて因果応報だザマアミロなどと思うのは正しくありません。
縁起の思想は己を律するためにあります。困っている人を蔑むためにはありません。また、過去の原因におびえても既に起きたことは変えようがありません。いま何をするかを考えた方が建設的というものです。縁起の思想は他人の恐怖を煽るためにもありません。
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