世に争いの種はつきまじ
人間が二人以上いれば、その意見が完全に一致する事は無い。ましてや多くの人で構成される社会ではなおさらだ。もし、全ての国民が同じ考え方をする国があれば、それは独裁国でそう言わされているだけだろう。
意見が違えばそこに対立が生まれる。平和的な話し合いで妥協点を探れるうちはまだ良いが、決定的に違う意見や価値観や目標も持つ複数の勢力どうしでは争いを避けるのは難しくなってくる。
徹底的な寛容を訴えたところで、寛容な社会の実現のためには、他に不寛容な勢力に対して不寛容にならざるを得ない。
遺憾ながら争いはある方が普通の状態といえる。ならば、その争いがより悲惨で無いようにしようとする努力が大切だ。そのためにはどうすればよいだろうか?
一般的に争うことが少ない価値観が近い者どうしが仲間となるのだが、その中では多少の利害関係の違いがあってもお互いに譲り合って平和が維持される。貪らずに譲り合うのは気持ちが良いだけではなくお互いの益にもなる。また、仲間どうしでは滅多なことでは怒らない。日頃から譲り合いをしている仲間には話し合いが通じると思っているからだ。これが、日頃から敵対して話が通じないと思っている相手だと人は容易に怒る。そして怒りのぶつけあいは争いを拡大させる。相手に対する無知が話を通じにくくさせ更に敵意を強くする。利益の相反があっても相手の立場を理解すればいくらかは対応の仕方もあると言うものだ。
争いをなるべく小さくするには、相手の事をよく理解し、無駄に敵を作らず、仲間を大切にすることが肝要だ。仏教が初期の段階から仲間(サンガ)を大事にしてきたのは、仲間の集団を維持することで貪りや怒りや無知が解消されやすくなると分かっていたからなのかも知れない。
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