公共哲学
公共哲学は、その言葉を使う人によっていささか意味合いが異なることも多い。だが大雑把に言うと、公共に関する問題への取り組みは、利益や効率の追求のみならず、正義や倫理的な理念を基本としてなされるべきだという考えだ。
しかるに近年の日本の、いや世界の政治家のうちこうした公共哲学を持っている人間がいかほどいるか?皆無だ。自分らの支持者の利益を最大限にする為に血道を上げる者が大半であり、それ以外は理念なき反対をする為に軸のない妨害を繰り返す者たちだ。
もっとも、利益や効率化はその恩恵を受ける人達にとっては正義であり倫理的ですらあるだろう。その意味では世の政治家はそういう哲学を持っていると言えなくも無い。ただ、何らかの政策の実施は、それで得をする人と損をする人が必ず発生する。損得だけで物を考えても、得をする方が多数派ならば、その政策方針を堅持すれば選挙にも勝てるという寸法にはなるが、それは敗者の切り捨てとなり、社会の分断が加速される。
選挙における利益誘導は実に有効だ。実際に受益する選挙民だけでなく、そうでない人も利益にありつけるように勝ちそうな方の主張に己を合わせようとするので、国民の多くが実際には納得はしていなくても、いわゆる地滑り的な勝利をおさめる政党も出てくる。
民主主義国における国会議員は国民によって選ばれる。国民が自分の利益にしか興味がなければ公共哲学を持たない政治家ばかりになるのは自然な事だ。そして、人間は公共よりは自分の利益を優先するのが普通だ。だが、各自の利益追求を先鋭化すれば分断と対立も先鋭化する。悲惨な争いを避ける為の妥協点を公共とだとする発想に行き着けば、利益追求の中にも正義や倫理が入り込む余地も生まれるだろう。
選挙も近いが候補者も選挙民も少しだけ公共哲学について考えてほしい。
コメント
コメントを投稿