浄土教擁護論
一部の人達、主に上座部仏教や原始仏教の信奉者からしばしば浄土教は仏教ではない邪教だとして叩かれることがある。本日はこの意見に対して浄土教を擁護してみる。
まず、仏教の最小要件として、ここでは大乗仏教も部派仏教も密教の信者でも概ね了承してもらえるであろう四法印を採用したい。つまり、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の教えを根幹としていれば仏教だとみなす事ができる。浄土教は四法印を満たしうるかみていこう。
一切皆苦に関しては言うまでもなく、他の日本仏教に比べて浄土教は徹底している。日本の浄土教の祖ともいうべき源信が「往生要集」で説き、徳川家康の馬印にも使われた「厭離穢土、欣求浄土」の文言にも示されるように、浄土教ではこの世界を汚れた穢土とみなしている。この世は、厭い離れるべき穢れた世界なのだ。そして、我々人類はいずれも救いがたい凡夫でしかない。浄土との対比において地獄も人間界も大差はなく等しく穢らわしいのだ。浄土教ではこの世を救いのない絶対的な苦だと見ているのは間違いない。
諸行無常、諸法無我はどうだろうか?これはこの世の全てが苦だとみなした時点で、結論が出ている。釈尊の時代から無常であることが苦とされているのだから、諸行無常ゆえに一切皆苦なのだ。そして諸行無常なら自分という確固たる存在もまた存在しない。この世の無常と無我は先の「往生要集」にも繰り返し説かれており、浄土教は一切皆苦、諸行無常、諸法無我の原則を支持している。
では涅槃寂静はどうだろうか?定義上は、永遠に繰り返される生滅が断たれた静かな状態が涅槃寂静とされ、先の一切皆苦、諸行無常、諸法無我の対義となる。「浄土」は「穢土」の対義で、穢土とは一切皆苦の世界だから浄土こそ寂静な涅槃の世界と言える。
つまり、浄土教においても四法印は踏襲されており、「厭離穢土、欣求浄土」とは煩悩を滅して悟りを開くということの言い換えだ。
そもそも論として、仏教は拡がっていった地域や、その時代にあわせて進化してきた歴史がある。仏教の精神が現地の人に受け入れられたのなら表現の違いなど些末な事だ。2500年前のインドの時代にあった表現以外が邪教というのならそれは仏教が嫌う執着に他ならない。
また、浄土教が修行を否定しているという意見もある。なるほど浄土真宗などは宗派として修行を否定しているが、実質的には違う。この世の無常、無我、苦を偏見なく見ようとする浄土教の姿勢は、八正道の正見に通じる物がある。釈尊の時代から存在する仏道修行の基本である八正道は正見に始まり正見に終わるのを批判者も知らぬ訳ではあるまい。むしろ、修行が特殊な状況ではなくなり、人生そのものが修行となっていると言っても過言ではない。
さらに、称名念仏については、南無阿弥陀仏という呪文さえ唱えれば成仏できるなどとする詐欺行為だとする批判もあるが、これも的はずれだ。浄土教系宗派の門信徒はもちろん阿弥陀如来の実在とその慈悲を信じて日々感謝の心を捧げているわけだが、絶対他力の称名は、我に対する慢心を除き、他からの慈悲を実感し、自他の執着なき慈悲の心が生まれる元となる。また、一心に唱えられる称名は精神の集中である禅定に類するともいえる。浄土教は自力では救われようもない凡夫を対象に整えられた体系であり、仏教の教えを簡単に実践できるように工夫されている。簡略化しすぎとかアレンジのしすぎという批判はありうるが、南無阿弥陀仏の称名が呪文の詠唱では無いことは少し考えれば分かることだ。
以上の根拠より浄土教は仏教だと断言する。
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