随方毘尼
随方毘尼は、仏教の行動規範である律は地域の気候や風土に応じて変更しても構わないという意味です。随方毘尼という言葉は日本では某カルト教団により多用されていますが、少なくとも唐代の文献では見られる一般的な仏教用語です。戒律はよくひとくくりにされますが、随方毘尼で変更を認めるのは律の方です。戒とは修行する上での規則を守ろうとする自律的な決心であるのに対して、律は僧侶達が集団で生活する上での規則であり、他律的なものです。しかし、その律を自律的に守るところに意味があるから戒律はセットで語られる訳です。
さて、インドの気候や風土を元に作れた律が、インドと違い冬の寒さが厳しい漢土の北方や朝鮮半島や日本でも全く同様に適応されるかというとそうもいきません。インドの律では頂いた食物を翌日に食べる事は禁じられています。要は備蓄出来ないのです。そうなると生き延びるには頻繁な布施が必要となりますが、雪が深く数ヶ月移動も困難になる地域では確実に死にます。他にも、個人が庵の寄進を受ける時には教団に許可をもらう必要がありますが、仏教教団がローカルな存在だったころはいざしらず、東アジアからインドに許可をもらいに行くのは昔では現実的ではなく、現代ではすでに教団が消滅していますので不可能です。また、古代インドでも仏教教団の拡大に伴い組織運営上の必要から蓄財を認める一派なども現れ徐々に律は変化していきました。律は人間の集団の規則であって仏法を追求する上で何がベストな規則なのかも時代や場所によって変わって当然です。世俗の物事は諸行無常の教えの通り変遷していくものですので、律の変更は妥当だと思われますが、やりすぎると秩序の崩壊を招きます。何事も中道が大切なのです。また仏法が東進するほどに律は甘くなっていき、日本は最も戒律がゆるい仏教国です。歴史的には律宗や真言律宗などによって時々、戒律の復興運動も起きますがあまり広がりませんでした。成文化された規則よりもその場の空気感や情緒を重視する日本人にはゆるい戒律の方が馴染んだのでしょう。とは言え、基本的に守るべきルールを無視する言い訳として随方毘尼を使うのはいけません。
ともあれ、真に守るべき根本を見失わずに、それを伝える組織を維持するための社会的なルールは適宜変更を加えるのがよろしいでしょう。ユダヤ系のカバラの教えにも一つの凝り固まったルールが世界を滅ぼさないように古いものは新しいものへと変わるとかいうものがあったと記憶しております。大昔に決まった規範をそのまま守ることに執着して不和を巻き起こし争いを呼ぶのは寧ろ仏法に反します。
ただ、どうせ守っていないのに一度成文化されたルールを変えるのを嫌う人が多いのも日本文化を考える上で面白いところです。実のところ、日本に伝わった戒律は文言として変化したり新たに制定された訳ではなく、現実的に運用する上で無視して守っていないだけです。もっとも組織運営上の決まりとしてはそれぞれの宗派で内規があるので現実的にはそうしたものに変化して行ったとしても良いのでしょう。逆に、こうした古典的戒律を引き出して日本仏教を叩く人達は、実際に戒律を重視していると言うよりも、概ね日本仏教を叩く為の武器として利用しているだけであり、新興宗教とかの人に多い気もします。ご用心をば。
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