一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは主に日蓮宗で説かれている言葉で、この世の社会でなす全ての政治や製造や農業や商売や生活などの活動は仏の教えに沿ったものであるとする意味です。法華経の解釈として伝教大師最澄がいった言葉だとされており、天台宗の「一隅を照らす」にも通じるものがあります。法華経ではこの世こそが実は仏国土であるとみなしており、法華経の信者はこの世を仏国土たらしめる菩薩であるとの自覚をもって日々の生活に励むことになり「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」はそのライフスタイルにしっくりくる言葉です。
ただ、日蓮宗は日本の伝統的仏教宗派では最後発であり、そのために他宗との違いを強調する傾向があります。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の文言も、浄土教系のこの世の外に理想の浄土を想定し、いま自分たちが生きている場を汚れた穢土とみなすことに対する反論として用いられる場合も目立ちます。
浄土教のこの世を穢土と見なす思想は、仏教の基本原則の一つである一切皆苦を分かりやすく説いていますが、曲解すればこの世をどうでもいいものと軽視してしまう危険性もはらんでいます。執着を離れるのと侮蔑するのは別物です。穢土に対して浄土を想定することも、それにより現世の諸行無常、諸法無我を強調し、浄土こそが涅槃寂静であると示す訳ですから、実のところ浄土教は仏教の基本を分かりやすく噛み砕いたものだと言えます。しかし、往々にして日蓮宗の批判にあるような現実軽視に陥りがちな傾向があるのも否めません。
逆に「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」との現実重視の考えも執着すれば、現世での物質や権力にとらわれる危険もあります。何事も中道が大事だといえるでしょう。
日蓮宗ではこの世を仏国土とみなしていますが、現実を生きる我々にはそうは見えません。そう見えないのは我々の修行たりず偏見でこの世を見ているからだとして信者は日々修行しています。この世が一切皆苦なのは仏が信者に与えた修行の機会という認識を新たにするために「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」との言葉を自分に言い聞かせ、苦しい仕事も修行のうちとして頑張るのですが、くれぐれも過労死にはご注意ください。ブラック企業などに唯々諾々と従うのは寧ろ悪行であり、ホワイト化させることが修行になると思います。
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