悪気が無い人を責める人

 先日の放生会の話でも触れたが、迂闊に生き物を環境に放つと遺伝子汚染を起こす恐れが強く、各種イベントで行われる川への魚の放流などがしばしば問題視されている。

 こうしたイベントだけでは無く、小型の水棲動物のペットは、哺乳類のペットに比べて飼えなくなったからと放流されがちではある。最近ではアメリカザリガニの様なメジャーなペットも特定外来生物に指定されており法的な規制も進んでいる。

 ただ、特定外来生物などの指定が無くても、川や沼は独自の生態系があり、同種の生物でも川や沼ごとに遺伝子的には差があり、合法であっても迂闊な放流はやはり環境の遺伝子汚染を招きうる。

 ここで問題となるのは、遺棄は論外であり批判も妥当であるが、イベント等での放流では遺憾な事に企画した側は良い事をしているつもりでやっている場合がほとんどだと言うことだ。彼らを批判する場合には相応の配慮も必要となってくるのだが、こうした場合の批判は著しく攻撃的である事も珍しくない。

 環境保護の視点にたてば放流イベントの不備を指摘するのは当然で正しい行為だ。無責任な放流で多くの生物が絶滅しうるのだから、断固として止めるべきだ。それは間違いない。

 では遺伝子汚染を招くような放流をした人達が、ああ良い事をしたなあという余韻に浸っている時に、環境保護の志に燃える活動家が鬼の様な形相で彼らを激しく罵倒したとしたらどうだろうか?罵倒だけならまだしも、お前らははじめから環境破壊を企んでいる極悪テロリスト集団だなどと内心まで決めつけてかかるのはいくらなんでもやりすぎだ。

 そもそも、悪気がなく過ちを犯した人に対しては、まず落ち着いて、問題点を分かりやすく説明するべきだ。いきなり攻撃的に接しても聞く耳をもって貰えない。話を聞いてもらえなければ事態も改善されない。環境保護団体がなすべきは正義の暴力を振るって悪を叩き快感を得ることではなく、環境保護の精神を広めてより多くの人からの協力を得ることだ。もしかしたら攻撃的に騒ぎ立てることによって、環境保護団体に恐怖感をもたせ言うことをきかせようという戦略なのかも知れないが、それは間違っている。環境保護団体に強い反感を持つ人が増えれば、環境保護の理念に納得する人は減って、人為的な遺伝子汚染も自然のうちだとなどとする屁理屈の信奉者が増え、環境を保護するための法整備へ悪影響を及ぼす可能性もある。

 無知から起こる問題は、ちゃんと教えれば解決する。無駄に攻撃的な活動家は正しくても嫌われる。目的である環境保護よりも自分が正しいと宣伝することの方を優先させる活動は目標達成に有害だ。

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