祈祷
日本の主な伝統仏教で浄土真宗以外は何らかの加持祈祷の儀式は存在する。現世利益を祈るだけではなく、追善回向もその効果を直接的には確認できないだけで先祖の成仏を祈る祈祷の一種だし、灌頂系の諸儀式も仏縁を頼りに自ら成仏を目指すための祈りと言えなくもない。加持祈祷は神仏の力である「加」を受持するための祈りだ。こうした祈祷を全否定する浄土真宗は現代的な思考では正しいのだが、では他の宗派が間違っているかと言うと違う。
密教など呪術に近い宗派は否定するだろうが、神仏に祈ろうが拝もうが、どうにもならないものはどうにもならない。しかし、どうにもならない世の中で、あえて行う祈祷は貪欲さを促進するものではなく、現実に出来る限りのことをしてもなお届かない目標に対する執着を断ち切る効果もあると思われる。神仏の力を持ってしてもダメならば諦めもつこう。逆に、祈祷によりどうにかなると思い込めば挫けずに問題に対処する力を得ることもあるだろう。他に何も出来ないくらい努力した後なら、祈祷の意味は決して少なくはないだろう。
ただ、何の努力もせずに初めから神仏に頼る姿勢では、偶然に願いが叶った時は強い慢心を生み、叶わなかった時には自分の努力の無さを棚に上げて神仏を恨んだりすることもあるかも知れない。このために、加持祈祷をする場合には目標に対する真摯さが求められる。
また、いわゆるお祓いのような霊的な何か不吉な存在を処理する祈りは、不安に怯える人に対して安心を与えることだろう。しかし、これも一歩間違えば不安を煽ってしまうことにつながりかねない。運用上の注意は必要だろう。
加持祈祷が無い浄土真宗はこの世は祈祷なんかじゃどうにもならない穢土だと言う現実を受け入れて阿弥陀如来にお任せしましょうと言うスタンスなので、祈祷に由来する諸問題は起きえない。人間なら執着も不安もあるのが普通だから仕方ないとみて受け入れることになる。だが、この考えは人が本来するべき精進すらも放棄しがちとなる副作用もある。もちろん、浄土真宗は人間が凡夫であることを言い訳として、悪行をせよなどとは言っておらずそうならないように自制は必要だ。
ともあれ今現在が大変な世の中だが穏やかになるように祈りたい。
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