断惑証理

 断惑証理(だんわくしょうり)は読み下しでは、惑ヲ断ジ理ヲ証スル、となり迷いを断って悟りを得るという意味になります。一般的な仏教においては、修行して煩悩を滅して悟りを開くのがその目標なので、その事を言い表していますが、この単語は多くは浄土教系の宗派が、そんな事出来ないよね、と強調する時に使われる事が多いです。

 法然上人は「無量寿経釈」で、断惑証理なきが故に生死を出づる輩なし、と言っており、「黒谷上人語灯録」でも、戒行において一戒ももたず禅定において一もこれを得ず智慧において断惑証果(断惑証理と同義)の正智をえず、として仏教の根本である戒定慧の三学の一つも達成不能だと言っています。浄土真宗の「報恩講私記」にも、断惑証理愚鈍の身成じがたく速成覚位末代の機およびがたし、とあります。

 まあ、実際に短い人生で断惑証理など達成不能だとは思いますが、達成不能だからと言って努力を怠ってはいけません。最終的に他力に救ってもらうのは全然構いませんが、戒律はなるべく守る、禅定も真似事でもまずは実践してみる、煩悩だって消えないけど小さくできれば、不完全でもそこから得られる智慧だってあるでしょう。

 人生、なにかを達成するには短すぎます。完全主義者はだいたい絶望しますから、気楽に生きましょう。

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