仏教と理念と生存者バイアス
生存者バイアスとは生存者のみをサンプルとしてしまってそうでないサンプルを無視することによって生じるバイアスです。例えば、第2次世界大戦中に帰還したアメリカ軍機の被弾箇所を調べて多く被弾している箇所の防御能力をあげようとする意見が出たことがありますが、これに対してハンガリー出身の統計学者エイブラハム・ウォールドは帰還した航空機の被弾箇所は被弾しても帰還できた部位であり、帰還し得なかった航空機は帰還した航空機が被弾していない箇所に損害を受けているとしてその部分の装甲増強を提案しました。またSNSなどで、世の成功者たちは自分が如何に単純なことをして成功したかを自慢気に語り凡人はなぜそれをしないのかと嘆きますが、実は同じことをして失敗した人の方が遥かに多く、成功者のみをサンプルとして抽出しても意味があるとは言えません。成功者と同じ事をしたところで、みんなが成功できることなどありえないのですが、今日も騙される人があとを絶ちません。しかし、これは決して他人事ではなく仏教でも同様の誤謬が起き得るのです。
何らかの宗教や理念を信じる人間は、この事を忘れてはいけません。なにかの理想を信じる事自体は悪くないのですが、それが万人に通用するわけではないのです。自分や仲間にとって救いとなった教えでも、それが役に立たない人だっています。仏教に多種多様な教えがある理由を説明するのに、歴史学的に見れば分派の連続により形成されたのでしょうが、宗教的にはお釈迦様が説法する人に合った教えを説いたので多種多様になったとする対機説法の話があります。仏教の基本構成を守りつついろんな文化や風土に合うように進化してきたのが仏教の歴史とも言えます。
しかし、対機説法があるから仏教はあらゆる局面で人を救うのかというとそんな事はありません。仏教の根幹でもある諸行無常や諸法無我も、これを否定する思想というものは当然あるわけです。少なくともキリスト教やイスラム教やユダヤ教では人間の魂は神から与えられた確固たるものだし、神の統べる天国も無常ではありません。自分と仲間たちが救われた教えだから他の全ても救えるとする考えも、救われた人達だけを抽出して出来た生存者バイアスと言えます。SNSのエコーチェンバー現象のようなものです。大乗仏教の仏教者たるもの、仏縁のない人への思いやりも忘れてはなりません。
このように理念や宗教などにおいて、それを信奉する人は生存者バイアスに留意して多様性や寛容さを大切にすべきですが、正誤がはっきりした科学的な議論とは別です。その辺を混同してはいけません。誰かが明らかに科学的に間違っているデマを科学的事実として吹聴し社会を混乱に陥れるのを看過してはなりません。放射線被曝無害論や地球温暖化幻想論やコロナはただの風邪論やタバコで健康になる論など、明らかに事実に反する事をあたかも科学的な証拠があるかの如く吹聴する人が反論を受けるとしばしば相手の事をさして自分が絶対に正しいと信じる人は怖いとか、意見の多様性を潰す言論弾圧だなどと言って話のすり替えをしますが、算数のように正誤が明らかな話をしているのですから誤りは正すべきなのです。価値観の多様性とか寛容とかそういう次元の話では無いのです。異論があるならば科学的に納得しうる証拠を出せば良いだけです。
人はしばしば主観的な価値の判断や分別に基づく正邪と、科学的正誤を混同しがちです。誰かの心情的に気に入らなくもて地球は丸いし、光速はどの慣性系から見ても不変です。過去に地球は平らであると言う説があったから、光速が慣性系によって変わる信じられていたからといって、現代においてそれを認めろというのは無茶ですし、その無茶を否定するのは言論弾圧でも科学者の横暴でもなんでもないのです。
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