夢と執着

 仏教では執着は忌避されます。執着があれば中道も空も無いからです。執着を避けるのは正しいのですが、在家の人の日々の生活の中でもつ夢も執着として批判されることがあります。はたして夢と執着は同じものなのでしょうか?

 少欲知足は貪りを捨てる基本ですが、例えばスポーツ選手が二位でいいやと言ってしまえばトップを目指す競技の存在意義から怪しくなります。ではスポーツ選手は執着の塊の恥ずべき職業なのでしょうか?
 
 スポーツに限らず、世俗の夢を叶えられる人はごく一握りであり、大多数は失敗します。だから夢を叶えた人は「すごい!」と褒め称えられるのです。夢はまた叶えられた歴史は残っても永続はしません。夢とはなかなかに儚いものなのです。

 夢もまた無常なのです。人は夢の儚さを知っているから大事にしていると思えば、執着とはまた別物のように思えます。スポーツ選手は誇っていい仕事だと言えます。

 しかし、サッカーのフーリガンなど特定のチームに執着して暴力の限りを尽くすのは夢をチームに託しているとは言えないでしょう。むしろ暴れる口実があれば何でも良さそうにみえます。

 スポーツ以外にも、例えば貧乏な幼少期を送った人がお金持ちになる夢をもっていたとして、それはすぐに貪りになるのかと言えばそうでもありません。正当な手段でまっとうにお金を稼ぐのならとやかく言う必要はありません。苦労を積んだ人間なら稼いだお金を世のため人のため正しく使ってくれるかも知れません。個人レベルではもちろん社会全体がひもじい思いをせずに生きていけるのは良いことです。ひもじかったり困窮した状態でも善い心を保つのは偉いことですが、皆が豊かであればそっちの方がいいに決まっています。

 学問や技術の探求への夢も素晴らしいことです。ただ、悪用が可能な高度な知識や強い力には高い倫理性が要求されるのを忘れてはいけません。夢に執着することによって悪事に手を染めることがあってはなりません。

 また、夢を目標だと解釈すれば菩薩の夢は一切衆生の成仏です。とっても夢がある話ですね。

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