磨鏡のたとえ

 四十二章経の第十一章に磨鏡のたとえというものがあります。それによると、悟りには形が無いので知ることは出来ないが、鏡についた汚れを落とせばはっきりと物が映るように、自分の欲や執着を除く修行をしていけば、悟りの境地が見えるであろうと説かれています。

 悟りという結果を形として追い求めていては悟りに対する執着となり悟ることが出来ないというロジックです。執着せずに、善いことをして悪いことをせず、心を集中していれば、自ずと正しく物事を観ることができるようになるのでしょう。

 修行を続けることと悟りを同一とみなすのは道元禅師の修証一等などの考えにも通じます。どんなに高い志も一歩一歩の積み重ねで到達するもので、道は日々の生活の中にあるのです。

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