環境と善人

 南伝のパーリ語仏典中部の鋸喩経の中にこんな話があります。あるところに親切でしとやかで謙遜だと評判の裕福な女主人がいました。その使用人の一人が、この女主人は本当に評判通りの人なのか環境によるものなのかを試そうと思いわざと女主人を怒らせるように遅刻をし、それを咎められるとそんなことで怒るものではないと言って挑発しました。使用人は次の日も遅刻したところ、女主人は使用人に対して怒り棒で殴りつけたので、良い評判を失ったというものです。

 この話は快適な環境にいる時だけ親切で評判の良い行為が出来るのは真にいい人とは言えず、逆境にあるときにも心静かにして善い行いを出来る人がよい人であると説くための寓話です。しかし、この話にそのままそうだそうだと言って同意していいのかには疑問もあります。

 確かに使用人を殴りつけた女主人は褒められたものではないでしょうが、そもそも相手を試そうとして他人に嫌な行為をする使用人も随分とひどい人間のように思えます。主人も使用人もお互いが相手を思いやり良い環境を維持できていれば、皆で善行に励めていたはずです。逆境にあっても親切で善行に励める人がすごく立派なだけで、世間一般には良い環境にあっても貪り怒るばかりの煩悩が盛んな人が大半であるのだから、良い環境の時だけ善いことを出来る人も十分に立派です。

 良い環境にあっても他人に親切にできる人は少ないとはいえ、人は逆境にいるよりも豊かな環境にあり余裕を持っている方が他人に親切に出来るものです。だから、社会全体が豊かで悩みの少ない環境にあることは、善い行いをする人々が増えることにもつながります。思い通りにならないこの世にあって、逆境でも善行を続けられるように教えを説くのは重要なことです。しかし、良い環境を作り保つための努力もまた疎かにしてはいけないことだと言えるでしょう。

 だから、人の善さを試すためにわざとブラック企業を増やしてはいけませんし、快適な社会を目指すのは何も悪いことではないのです。

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