円融三諦、この世は空だから世間を見下すという発想は空ではない。
大乗仏教の根本思想として知られる空は、別に竜樹菩薩が新たに作ったものではなく釈尊の教えの言い換えです。この世の全ては網の目のような縁起の連鎖であり移ろいゆき変わらぬ物も不変の我もありえないのです。だから空をしっかり観ることができれば、自分に執着することも物に執着することもなくなるのです。空の思想も部派仏教の縁起をみて中道を極める考えもその根本において違いはありません。大乗仏教と部派仏教の違いは空の思想の有無ではなくそれを観た上で菩薩という道を選ぶか否かの差でしょう。
しかし残念ながら、執着をすてるはずの空の考えに執着して世間をどうでも良いものと見下し、著しくは人々の生命すらどうでもいいものと軽んじる人もいます。割とありがちな誤ちで時々そういう意見は見聞きします。その大体が不適切な指導での瞑想により個々の偏った内世界を観た人のものですが、そうした人が怪しげな指導者となって誤解を再生産していく場合もあります。
日本には古来より、この世の無常に対して哀れという独特の感傷をもつ文化があり儚く移ろいゆくものを受け入れてきました。こうした風土の影響か先述したような誤った思想は日本ではあまり広がりませんがちらほらとは見かけます。
天台の教えに円融三諦というものがあります。三諦とは、この世の全ては実体を持たない空であるとする空諦、全ての事象は因縁より生じる仮のものであるとする仮諦、それらを前提としてこの世の全てを真実としてありのままにみる中諦、これら三つをさしています。世俗の実生活では主に仮の状態につかっていることになります。それ故に、因縁によってうつろいゆく仮の物を実体がありと捉える偏った状態におちいりがちです。これを是正するために、空と仮と中は不可分であると観る瞑想がありこれを一心三観といいます。こうして三諦は円融するのです。この元ネタは龍樹菩薩の中論で、全ての因縁は空であるから(自性がない)仮のものであり、これが中道であると説かれています。本来はつながっているものの見方が、世間ではバラバラだとされがちなので統合するための瞑想を行う訳です。空も仮も不可分なのですから仮として起きている現象を空の立場から見下すのは理屈的には出来ないのです。なぜそんな誤ちが起きるのかと言うと、空を仮より高次のすごい状態だと優劣をつけて盲信しそれに執着して区別するから物事をありのままに観る中道の状態になれないのです。
誤解された空の思想にこだわり衆生の心や命を侮辱するのは、仏教としてあってはいけない偏りです。命は大切にしましょう。南無法。
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