浄土真宗の禅!?
日本仏教の最大宗派である浄土真宗の教義としては自力の行としての禅は否定されています。真宗の教義では、称名念仏も自分が行っている訳ではなく阿弥陀如来の慈悲が届いた結果として自然に溢れるものだと解釈されており、代々それは大事に守られ御仏に感謝がささげられてきました。小生は以前から念仏には六波羅蜜の禅定の効果が期待できるのでは無いかとの説を提唱していましたが、これは他力の念仏を否定するものではなく、念仏により結果として心が落ち着くよねと言っているだけです。
一方で浄土真宗教団の最大宗派である本願寺派、いわゆる西本願寺では近年自力の行を許容するかの様な公式談話もしばしば見られ個人的に注目していました(「私たちのちかい」闘争 参照)。本日お話しするのは何か新しい発表があったのでは無く、ふと海外の本願寺派のサイトを見ていた時にビックリするような記載があったので、その概要を説明します。
なんと!カナダの浄土真宗本願寺派には瞑想の修行が存在します!もうビックリ仰天です。いやまあ内輪で話し合って新境地を拓くこと自体は否定しませんが、教団の保守派は納得したのでしょうか?詳しい人がいたら御教示ください。以下に浄土真宗本願寺派カナダのサイトに載っていた文章について考察してみます。なお原文はこちらからどうぞ https://www.bcc.ca/jodoshinshu/meditation.html
まず違和感を覚えたのは、本来は浄土真宗は称名念仏のみであるとしつつも、称名念仏も瞑想であるとされていた事です。念の為にその部分の原文を提示すると"Traditionally, Shin Buddhism has limited its meditation practices to sutra chanting and recitation of the “Nembutsu”; Namo Amida Butsu. "となっています。これは念仏に瞑想の効果があるとしても、称名念仏が阿弥陀如来の慈悲の発露であり自力で唱えている訳ではないとする真宗の教義に反するかと思います。続いて通常の禅定の説明がありこれ自体は概ね正しいのかと思いますが、瞑想により己の仏性に目覚めるのは明らかに自力の行だと言えます。そういう目的を持って瞑想した時点で阿弥陀様におまかせしていません。他力の念仏による禅定の効果は、徹底的に自力の思想を廃するがゆえに慢の心を生ぜず結果として禅定になるのだとは思いますが、はじめから悟りと禅定を目指して自力の行をするのは真宗の教えの根幹に背きます。そして、曼荼羅や正念や禅宗の伝統的な手法をいくつか紹介したあと、真宗はこれまで座る瞑想を取り入れていなかったけど、これらの技術を拝借すると言っています。そして、真宗風の瞑想法が提示されていますが、その中でもっとも驚くべきは、瞑想のために用意する仏壇の尊像が釈迦牟尼佛か阿弥陀如来か名号とされている点です。こちらもちょっと長いですが原文を引用しますと"Create a meditation shrine of some kind in your home. This shrine can be a traditional Shin Buddhist "obutsudan" or you may create a personal shrine that you find spiritually inspiring. Choose a photograph or statue of Shakyamuni Buddha or Amida Buddha that appeals to you. You can also choose a scroll of "Namo Amida. Add a candle, a vase of flowers, and an incense burner. Japanese incense can be purchased at Japanese grocery stores."となります。浄土真宗の本尊は徹頭徹尾阿弥陀如来の一尊です。それ以外はあってはならないはずです。釈迦牟尼仏を祀る仏壇の前で座禅に勤しむ浄土真宗門徒とはいかなるものなのでしょうか?まあ、浄土真宗の根本経典の一つである観無量寿経は、それ自体が瞑想法のガイダンスでありはしますが、この経典を正しく瞑想出来ない人類のために最後に称名念仏を勧められたと解釈する浄土真宗としてはどうなんでしょうね?
諸行無常は世のならい。私の知っている浄土真宗ももう無いのかも知れません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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