分別と言葉

 仏教は分別を嫌います。有無、生滅、増減などの対立する二つの概念は人の分別や偏見から生じたものと考えられており、言葉で説明されたすべての物事はありのままではなく、語った人の認識に歪められているのです。

 例えば、赤い花という言葉を聞けば赤い花びらを持つ花を想像するでしょうが、実際の赤い花の花びらにはグラデーションがあり、模様や花脈まで赤いとは限りません。花びらの形や葉や茎などの状態も赤い花という言葉だけでは伝わって来ませんから、この言葉を聞いた各自のイメージする赤い花がそれぞれあることになり、しかもその頭に思い浮かべた花は世界のどこにも実在しません。実在する赤い花も次の瞬間には色や形や艶や張りなどが変わっていきます。物事は言語に落とし込んだ時点で、どんなに巧みな言葉をつかったところで実在しないものとなります。

 しかし、言葉で表現されたものがあまりにも不安定だと日常生活に多大な支障を来します。だから、日頃はあまり気にしないで済むように社会的な共通認識の範囲内で言葉は使われ利便性をもたらすとともに、詩人や詐欺師の腕のみせどころにもなります。また、曖昧では困る数学や論理学や科学などの分野では誤解が無いように使用する言葉や概念の定義付けがなされるのです。こうした日常にどっぷり浸かっていると、言葉が人の偏見を強化する力や物事の儚さを忘れがちになります。

 言葉の暗示力は強力です。例えば、誰かを友達というカテゴリーに分類するか、敵というカテゴリーに分類するかによって、その誰かと自分の移ろいゆく本質を無視した強制力が発揮されてしまいます。呪いのようなものです。逆にすべての人を軽んじなかった常不軽菩薩が会う全ての人にあえて言葉でそう伝えたのは、言葉により実態を良い方向へ変えようとしたのかも知れません。言葉の力とは恐ろしいものです。しかし、人間は言葉を使わずに社会生活を送ることは困難ですから、なるべく良い言葉を使い悪い言葉は使わない方が良いでしょう。仏教で説かれる十悪のうち四つまでが言葉に関するものであるのは、先人の言葉に対する警戒心の表れでしょう。

 言葉は容易に認識を歪ませ、怒りや貪りを煽り偏見を生んで殺生や盗みや邪淫など他の悪の原因ともなります。また逆に他の悪がより悪い言葉を使わせて、その言葉により更に他の悪も激しくなるという悪のデフレスパイラルが起きるのです。この悪循環を断ち切るのに最も簡単なのは言葉を正すことです。

 実践するのは難しいですが精進して参りましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

妙好人、浅原才市の詩

現代中国の仏教

懐中名号